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■軍事史研究家、渡辺博史氏―日本海軍関係の本

虚仮の一念 戦史研究と戦争史観について

 この半世紀余、日本海軍の戦史研究に余暇の大半を費やした。在職中は時間が週末のほか少なく、公刊戦史叢書100冊余と各種の回想録、防衛庁戦史部図書室の各種資料を閲覧して摘記したほか、複写の交付を申請して資料の入手と蓄積に努めた。

 我が国の戦史の資料と言えば、防衛省戦史部図書館に集められているが、玉砕した部隊など記録がない部隊も多く、終戦直後に一切の書類を焼却したりして、全部の資料が揃っているわけではない。最後は消息不明の戦死者も多く、全滅した陸戦部隊の最後の様子は、米軍の戦闘記録から推測するほかない事例も多い。

 ないものねだりになるが、万を越える部隊の最期が短い記述で終わるのは無惨であり、もう少し丁寧な推察の言及がないものかと思う事例も二、三に留まらない。恩給の戦時加算調書にも、この間、行動不明という記載もあちこちに見受けられる。

 現地の部隊の行動記録だけでなく、公刊戦史の記事には資料の原本がなく、編纂官が適宜まとめた作戦資料も少なくない。公刊戦史編纂に何年もかかり、多数の編纂官の苦労された背景が透けて見える。

 それでも我が国の公刊戦史は敗戦ため、総じて虚飾がなく、客観的で正確という点で、世界諸国の戦史の中で最も優れたセンスの内容だと思われる。もっとも、肝心要の開戦経緯については陸海軍別々の編纂となり、内容も食い違ったままで、陸海軍部内の動きを一本化する歴史の編纂はできなかった。

 識者はよく我が国ではあの戦争の総括が出来ていないと怠慢を咎めるが、政権を担った陸海軍政権は同床異夢の中で開戦に向かい、戦後になっても開戦経緯の記述がいまだに一本にまとめられない有様なので、この先も望み薄と思われる。我が国の言語と組織体質の通弊なのかと思う。

1、 防衛庁戦史部の思い出

 あの頃の防衛庁戦史部は市ヶ谷駐屯地の片隅にあった。図書室の閲覧場所は、木造二階建ての階段下の通路の片脇に粗末な折り畳み椅子と小さな円卓があるだけ。戦史部全体が資料保管場所として最優先であり、執務室は狭く、冷暖房なしの古い兵舎に居候していた。

 入場許可をもらう衛門の構えとは異なり、駐屯地の建物は極東軍事法廷の東京裁判に使用された講堂以外は、みすぼらしい格好で質素なものだった。閲覧場所の横の通路を衝立で仕切った狭い場所があり、そこで著名な編纂官たちが議論していた。時にその内容が耳に入り、興味深く勉強にもなった。

 あの頃、戦史研究が趣味だと言うと、世間では右翼の好戦的人物と見られ、肩身が狭かった。加入した軍事史学会も、最初は防衛庁編纂官等の旧軍人が多かったが、その後は次第に大学教授等の研究者が増えて、年度総会の開催地も自衛隊の施設から大学へと会場を移した。

 世界の諸国の中で、軍事関係の講座が防衛大学校以外にないというのも我が国の特色であるが、軍事研究イコール右翼の武闘派というのは大変な誤解である。軍事に無知な人士が国防を巡り、見当違いの迷論に甲論乙駁というのは、平和愛好家を自負する有識者の基礎知識の欠如を示しており、観念過剰の危なさを覚える。

 ともあれ平和ぼけと言われても、半世紀余の平和は貴重なもので、次代の孫子のためにも何としても続いてほしいと願うばかりである。

 さて、今年の初夏から夏の終わりにかけ、筆者の帝国海軍に関する部隊別記録整理は、ようやく戦力の中核となる機動部隊になった。最初の予定では、護衛部隊の艦艇として駆逐艦に水雷艇、哨戒艇を加えた3冊に続いて、今春には4冊目の海防艦をまとめたので、その続きとなるところだが、ここで一旦中断してとなった。

 手元の未整理の資料を見ると、海軍には何故こんなに多種多様の艦艇や部隊があるのかと、資料を整理しながら改めて痛感。戦争とはかくも多種多様な分野の武器と人の動員を必要とするのかと思いながら、昔の戦争計画の経緯を追跡した。

2、 想定を超えた戦禍の規模

 昭和初期から高度国防国家建設が唱えられ、否応なく国家総動員体制の構築が次の戦争に備えて必要となった。海軍の戦争では、銃後の本国で軍需生産や労役に動員された多数の庶民と学生学徒のほか、実施部隊に組み込まれた特設艦船や諸部隊にも多数の軍属や船員が動員された。船員と設営部隊、軍用郵便所、病院、軍政機関のほか、多数の庶民と学生生徒を含む非戦闘員に戦没者が出ている。

 戦局の進展により、根こそぎ動員で戦没者の激増を招いた事態など、国家動員法を可決した国会議員諸公にとっても、開戦前にはそれこそ想定外の話だったと思われる。戦前戦中に各地で展開された大規模な防空演習は、大型爆撃機による戦略爆撃で本土各都市が焼け野原になるとは、これもまったく思いもよらない話だった。

 防空演習に皇族が臨席されるというので、緒戦ではシルNハット姿で供奉する現場の学校長などが見られたが、戦争の深刻な成り行きで、そんな優雅な演習どころでなく、演習の中身も大半が役に立たない想定を根拠にしていたことが露呈した。激しい空襲を受けた前進根拠地ラバウルから帰還した軍医官が、横須賀鎮守府の防空演習を見て、子供だましだと呆れたというが、戦争の成り行きの恐ろしい一面である。

 同じく想定外のことだが、米潜水艦と航空部隊の活躍で、戦前に島国日本を支えた大商船隊と多数の漁船群は見るも無惨な損耗を重ねた。戦争とは戦艦大和の出番だけでなく、裏方の補給部隊など裾野が広い話である。

 戦前の大商船隊は壊滅、船員だけでも数万の戦没者を出した。主要艦艇の戦没者を凌駕する数で、喪失した船舶の数は陸軍船と民間船を含め、海軍艦艇の数を遙かに上回る。

 ノーモア・ウォーというスローガンを唱える向きも、海上特攻隊となった戦艦大和の最後とか、広島と長崎の原爆投下の惨害に目を奪われるだけで、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄本島で一般庶民を巻き込んだ玉砕戦闘の実態などには大方無関心である。つまり、日露戦争当時の旅順要塞攻略戦とか、日本海海戦と同様で、クライマックスの戦闘にしか関心がない

3、世界大戦が大量破壊兵器を生む

 また、因果な話だが、大戦には大量殺傷兵器の開発がつきものである。第一次大戦で、独軍は東部戦線では有名なタンネンベルヒの戦闘でロシア軍を壊滅させ、ロシアを戦争から離脱させたが、西部戦線では相互に攻めあぐみ、塹壕に立てこもる膠着状態になった。

 局面打開のため、毒ガス、ダムダム弾の使用で殲滅戦が企図された。風向きの良い毒ガス日和に万を超える敵軍を殺害した勝利もあり、当たれば致命傷になるダムダム弾が使用されたが、膠着状態の対峙は続いた。結局、戦場での決定的な大勝利がないまま、ドイツ国内の疲弊に根ざす戦意喪失で幕となった。第二次大戦では毒ガスと桁違いの惨禍をもたらす原爆が登場している。

 また、第一世界大戦は戦前に予想外もしない新兵器を登場させた。飛行機と飛行船、潜水艦の登場で、平面的な戦闘が空中、水中に及ぶ立体的な交戦に転化した。

 英独の艦隊決戦ではジュットランド沖網戦が引き分けに終わり、独潜水艦の活発な行動に連合国海軍は悩まされた。護衛艦艇に不足した連合国は、日本海軍に地中海東部の船団護衛の兵力派遣を求め、第一特務艦隊(一個水雷戦隊強)がマルタ島のバレッタに派遣された。

 日本陸軍は中国山東省青島の独租借地を攻略したのち、東部戦線、トルコ方面かイタリア戦線への出兵を求められたが、そんな遠距離出兵は無理だとなり、再々の打診をいずれも断っている。

 他方、日本海軍は青島の独東洋艦隊主力を取り逃がし、以後は通商破壊に大活躍した独巡洋艦等を追いかけ、米西海岸、シンガボール、豪州沿岸からインド洋にと艦隊を派遣した。同盟国とは言いながら、人種差別で行く先々で上陸禁止などと冷遇され、割に合わない任務となった。日英同盟の誼もあり、動き易い海軍は地中海に遠征する仕儀になった。

 他方、膠着した塹壕戦は鉄条網と機関銃で守られ、英仏連合軍は突撃を繰り返して多大の損耗を重ねた。フランス陸軍では守りのエース、ベルダン要塞司令官ペタン将軍が全軍を指揮することなり、激しい損耗で意気喪失した全陸軍の建て直しに当たった。

 この鉄条網と機関銃を突破する兵器として戦車が開発されたが、当時の英陸軍首脳はその効用を疑問視して研究開発を却下した。戦車の開発は海軍大臣チャーチルが引き取り、特殊水槽の開発研究という名目で続行。正式な陸戦兵器となった時、戦車はタンクと呼称された。

 このチャーチル海軍大臣は、トルコのダーダネルス海峡からイスタンプールの攻略を唱道。有名なガリポリ上陸作戦となったが、海岸に続く崖を登り先陣を切ったニュージーランド部隊は、後続の英陸軍の進出が遅く、トルコの若い将軍ケマル・アタチュルクの巧みで果敢な防戦で、崖の上の橋頭堡形成に失敗した。

 以後は狭い崖下の海岸に上陸した英陸軍は動きが取れず、トルコ軍から捕虜収容所と揶揄されて撤退。この作戦の失敗で海軍大臣チャーチルは辞任することになる。

 ガリポリ作戦は戦略としては正しくても、現場の指揮官が地形を弁えず、戦勝を逃した失敗例として有名になった。ニュージーランド軍は、猟師を主体とした不正規軍のような部隊で、勇猛果敢、各人銘々の判断で敏速に崖を登り、橋頭堡を築こうとした。後続の英軍指揮官は部隊の統制整頓に拘り、動きが緩慢で、お粗末な作戦指揮により戦勝の機会を逃がした。

 他方、日本海軍の遠征部隊は駆逐艦が不足したため、英国から駆逐艦とトロール船を借りて不足を補い、日本海軍の将兵を乗せて戦った。護衛の実績は抜群で、英仏の軍隊輸送船の被害は少なく、沈没する船に乗った将兵を残らず救助した快挙もあった。

 このニュースは広く英仏国民に伝えられた。戦後に訪仏した練習艦隊の士官候補生たちはパリのオペラ座に招かれ、満員の聴衆から総立ちの歓迎を受けたという。

 その後、国際情勢の推移により、こうした歓迎ムードは消失。日本海軍の練習艦隊は訪問先が狭まり、支那事変以降になると、本土、朝鮮、旅順、台湾等の範囲に限られている。

4、海軍戦史を追いかける理由

 さて、第一次世界大戦で戦勝国として独潜水艦の配分を受けた日本海軍では、ほとんど未経験の将兵たちが回航に当たった。とても日本まで操艦できまいとの予想を覆し、独潜水艦は日本に到着した。

 第一世界大戦での教訓から、日本海軍の艦種は潜水艦と対潜戦闘の艦種が大幅に増加し、対空戦闘の防御面の改装も続いた。支那事変当時はともかく、昭和15年秋の対米英戦の出師準備に入ると、特設艦艇の飛躍的な増加は驚くべきものであった。

 予備艦の解消に加えて、戦時編制の実施で開戦直前の海軍は、深刻な要員不足になった。予備役の総動員、商船幹部の予備士官の召集等も広がり、不足を補ったが、現役将兵は新造艦の要員補充で随所に払底の状態となる。

 部隊の編成に伴う人集めは並大抵の苦労でなかったと推測される。ちょうど開戦後就役した大和、武蔵の現役士官の発令を整理したところで、際どい開戦で余裕がなく、交代要員のない一直海軍の状態を痛感した。

 筆者の年来の作業となる日本海軍の艦艇、部隊別の記録の整理はようやく28冊に達したが、前途遠しの感は否めない。そこで余命を考えて方向を換え、護衛部隊の続編は後回しにして、主力部隊の艦艇と部隊を先にまとめることにした。

 護衛部隊の艦艇の続編は、二等巡洋艦、練習巡洋艦、敷設艦、特設敷設艦、特設急設網艦、特設水雷母艦、特設掃海母艦、砲艦、特設砲艦、掃海艇、掃海特務艇、特設掃海艇、駆潜艇、駆潜特務艇、特設捕獲網艇、特設駆潜艇、敷設艇、電纜敷設艇、特設敷設艇、特設防潜網艇、哨戒特務艇、特設監視艇と続けるつもりだった。

 これだけでも大変な分量で、優に一年余の時間が必要になる。その上、これらの艦艇等で編制される駆逐隊、水雷隊、哨戒艇隊、砲艦隊、特設砲艦隊、掃海隊、特設掃海隊、駆潜隊、特設駆潜隊、特設監視艇隊がある。

 更に、護衛任務の各水雷戦隊、敷設艦と特設敷設艦、特設巡洋艦の各戦隊、各海上護衛隊、各防備戦隊と警備戦隊、各根拠地隊と特別根拠地隊等に加え、これらの各隊と艦を束ねる出先の各艦隊、海上護衛総司令部部隊がある。

 気が遠くなるが、その先に補給部隊として特務艦(給油、運送、工作、標的、砕氷等)と多数の特設運送艦と特設運送船(工作、病院、港務、救難、電纜敷設、給兵、給水、給糧、給炭、給炭油、給油、雑用)が控えている。

 また、中央の諸官衙、水路部、各学校、工作庁と工作部、病院、人事部と地方人事部、軍需部、経理部、艦船部、港務部、運輸部、施設部、通信縦、聯合通信隊司令部、気象隊、測量隊、防疫班、回航班、補欠班、輸送隊、陸上輸送隊ほかについて、海軍組織要覧の草稿を作り、編集作業を企図している。

 いずれにせよ、連日入力作業に忙しいが、何処かで幕となるのは避けられない。そこで、帝国海軍の主力となる機動部隊の4冊を先にまとめ、次いで大鑑巨砲時代の主力部隊、戦艦大和型を含む旧主力部隊の約4冊(未定)を年内にまとめてとなった。

 その先に、命があれば護衛部隊の艦艇の続編と海軍組織要覧に取り組むことにした。まさに虚仮の一念のような無謀な取り組みで、我ながら半ば呆れた話である。

 どうしてと動機を聞かれると、幼い頃、横浜港で見学や見送りで親しんだあの美しい艦船と乗員の消息が知りたいというのが、海軍戦史と戦争の歴史を追いかける端緒になった。何かの因縁奇縁と言うほかない。とにかく幼い頃から軍艦も客船も貨物船も、船は大好きであった。

5、読み応えある提督たちの回顧談

 この間、昨年末から「帝国海軍・提督達の遺稿 小柳資料」を何回となく読み返した。海軍の中枢にあった提督達というのだが、兵科以外に機関科、軍医科、主計科の将官、首席書記官、予備役召集の谷井末吉海軍大佐に加え、陸軍大将今村均も加えられている。

 回想の主題は開戦に至るまでの部内の動きで、二・二六事件で失脚した真崎甚三郎陸軍大将の令弟、真崎勝次海軍少将の回想など、立場と視点の異なる面々の戦争と組織と人の回顧談は読み応えがある。

 この中である若い提督が、要路の大方の先輩提督は戦争というものを深く考えなかった、と述べていたのが印象的であった。開戦を目前にした御前会議の決定の取り扱いについて、若槻元首相は「あまりにも法律家的で、国運を賭しての問題なので、も少し政治的な考慮をしてはどうか」と述べている。

 しかし、当時の我が国では軍人が首相として政治の頂点にあり、軍人と官僚が形成する機構では、無理な注文であった。軍人政権は緒戦の連戦連勝によって、圧倒的な支持を得たが、緒戦の第一段作戦を終わると、その先の作戦目標は茶の木畑に入り、戸惑いの連続となった。

 補給面を考えれば、ミッドウェー、ガダルカナル島、アリューシャン列島の攻略などは無謀な話で、そこから先は連戦連敗となった。軍人と官僚の政権は、個々の施策と作戦のお膳立ては、勢い部内の小手先の政治的駆け引きだけが随所に顔を出してくる。

 戦争後半の絶望的な情勢の中で、主要部隊の作戦任務は「敵撃滅」に要約された。こんな安易な作戦命令はない。のちに戦後の高度成長期の企業幹部の研修において、最も劣悪な命令と指示の典型として取り上げられた。

 勝算がなくてもとにかく攻撃を命じ、歯が立たないとなると相当の損害を蒙ってから離脱の命令を出す。これで年度作戦計画の格好をつけ、一件落着の繰り返し。前線は本土に近づき、米軍の遠距離爆撃機の本土空襲で、聯合艦隊主力は本国内地の軍港の居場所が危なくなった。

 その上、肝心の重油を内地に運ぶタンカーも激減。重油の産地に近いシンガポール付近のリンガ泊地が主力部隊の待機場所となった。

 マリアナ諸島の攻防をめぐる海戦で、機動部隊は米機動部隊の艦上機群に完敗。予想される次の比島沖海戦までに我が機動部隊は、新就役の母艦で損耗の穴埋めはできても、肝心の搭乗員の養成が間に合わなかった。

 ここで、次の米機動部隊との対決は、基地航空部隊が主役となり、台湾沖の夜間攻撃で驚くべき戦果が報告された。やれば出来るとなり、国内は戦勝ムードに沸いたが、それも束の間、米機動部隊は健在と分かった。

 我が機動部隊の空母4隻は囮出撃して比島沖の機動部隊を北に引き寄せ、その間に大和、武蔵を含む第一遊撃部隊をレイテ島の米軍上陸地点に突入させ、輸送船団を含む敵艦船の撃滅が企図された。

 第一遊撃部隊主力は進出の途中、戦艦武蔵と重巡洋艦3隻を失い、レイテ沖に到達したが、遭遇した米軍護衛部隊の特設空母群を正規空母と混同、その捕捉撃滅が優先してレイテ湾突入を断念、中途半端な戦闘ののち離脱した。捷一号作戦のメインはあっさりと現場指揮官の判断で幕となった。

 勝敗はとっくについていた決戦だったが、囮役の機動部隊が全滅、現地の基地航空部隊が特攻攻撃を開始した中で、不釣り合いな脱落となり、悔いが残る結末になった。戦争とは借金と同じで、事業は始める時よりも止める時が遙かに難しい。

 軍人政治家と官僚たちは、昭和天皇の聖断で終戦となり、陸海軍組織の解体、連合国による極東軍事法廷において国の首脳が処断されるまで、あの世界戦争が日清・日露の両戦争のように限定戦争でなく、オール・オア・ナッシングの戦争であったことに、気づかなかったようである。

6、戦争とは災厄の連鎖の嵐か

 日独伊三国を屈服させた米国も、没落した英国に代わり西欧諸国の復興に尽力、中国国民党政府の支援に奔走したが、後者は徒労に帰した。日本を屈服させたのち、中国本土は反米の共産党政権が支配することになった。

 戦勝国としてアジアを制覇した米国が得たものは、自らが施した平和憲法の理念を自ら覆す日本の再軍備で、何とも引き合わない大きな誤算の連続であった。戦争とはその時々のフィーバーの産物で、終わってみれば戦勝国にとっても、次の厄介な大変革に当面する点で、災厄の連鎖の嵐のようなものである。

 上記の若い提督の感想は、漠然とした指摘であるが、第一次大戦の結末のように、単に戦闘の勝敗だけでなく、国内の行財政に困窮を招き、割に合わない結果を招くことを看取、洞察すべきであったと思われる。外国の脅威から身を守る戦争ならばまだしも、これが深刻な内戦となれば沙汰の限りである。

 先月、徳川美術館で開催された幕末の尾張藩主慶勝公の展覧会で、孝明天皇の御宸筆は「治乱の堺に立つ」危機感の中で、偽勅まで出る有様で在位とは名ばかりと嘆かれ、尾張慶勝公に対して「周旋」を頼み入ると結ばれている。

 公開された御宸筆の内容は、驚くばかりである。慶勝公が戊辰戦争に至るまで終始、内戦の回避に努められた政治姿勢の原点は、ここにあったと畏友永井久隆氏が教えてくれた。

 あの維新の大変革の中で、戊辰戦争の早期終結を図り、慶勝公等は維新後の幼稚な新政府を陰で支え続けた。要路にあって戦争のデメリットを真剣に考えた人物は、我が国の歴史上、慶勝公の他にほとんどないと痛感する次第である。

 ●本稿は同人誌「ちいさなあしあと」第43号(平成25年、冬号)に載せたものである

 

 

 

 

 


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