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■空の彼方 海軍基地航空部隊要覧

苦闘された人々の鎮魂を祈りながら

 海軍航空部隊に関する部隊別のノートを作り初めたのは、かれこれ20年くらい前のことになる。その焦点となる期間は言うまでもなく、先の大戦の開戦準備、昭和15年秋の出師準備第一着から、昭和20年夏の敗戦までとなる。

 本編は日本海軍の基地航空部隊に関する部隊別の要覧で、航空母艦、水上機母艦の航空部隊については、各母艦とその飛行機の行動を、後日別編にまとめることにしたい。一昨年の秋、ワープロで入力を開始してから、最初の目算が大きく狂い、随分と予定をオーバーしてしまった。

 今漸く、最初の部隊別要覧2冊をまとめ、印刷にかけることにした。部分的にまとまった分から順次ということになり、その間に残る部分を進めてとなり、今年一杯を費やして何とかゴールしたいと念願している。

 この一年半のうち休んだ日は殆どなく、特に病臥で作業を休んだ日がなかったのは、幸運というか奇跡のようなものだった。連日約10時間前後、視力と指が衰えた後期高齢者としては少しハードな作業になったが、何とか続けて来られたのは、自分の能力とか才覚ではなく、何か眼に見えない力に動かされ、生かされているかのように思われてならない。

 筆者にとって飛行機は、見るからに胸が詰まるような感動を覚える代物で、快適な空の旅と言われても、旅客機は敬遠したい乗り物である。生来、臆病な上に、幼い頃に大手術で筆者は片耳の聴力を失った。

 列車がトンネルに入る時など急激な気圧の変化に遭うと、思わず耳を押さえたくなる状態で、飛行機ではもっと耳に負荷がかかるのではないかと思ったりする。墜落の危険より前に、そんな懸念が強くて飛行機は何とも付き合い難い。

 ある時、国内旅行で立場上やむなく双発のプロペラ旅客機に乗った。それが筆者にとっては、後にも先にも一度だけの体験である。空から見る地上の眺めは、全く浮き世離れのした景色で、それにもまして空の彼方は果てしなく広い。

 昔の海車航空隊の搭乗員たちは、あの空の彼方の戦場に赴き、多くが帰らなかった。今の旅客機の美人スチュワーデスを含め、昔も今も航空機搭乗員の度胸、センス、資質は並みではないと思った。

 この要覧で部隊別の行動記録を入力しながら、何よりも痛感したのは、搭乗員たちの孤独な闘志と犠牲の多さであった。特に、戦争後半の夥しい戦没者の箇所では、思わず念仏を唱えながらの作業になった。

 天気予報も通信手段も、とても御粗末だった時代に、搭乗員たちは今より何倍、何十倍のリスクの中で、必死に操縦棹を握り、毅然として困難な飛行に挑戦していたわけである。特に、暗夜や悪天候の中での飛行となれば、危険極まりないものである。

 出撃の時は何とか発進できても、帰りは霧の中の盲目飛行となることもあり、無事に帰着できたのは奇跡だという感想も少なくない。その上、敵地や敵艦の攻撃から、無事に離脱して帰還できるかどうかとなると、リスクは更に高い。

 いくら冒険好きの飛行機野郎だからと言っても、危険手当や恩給加算で償われる職務だとは思われない職務である。平時ならばスリルと事故が多い職務であるが、戦時となれば命がいくつあっても足りないような、義務を超えた献身が求められる職務である。そこは志願だからと言っても、それで済まされるとは思われない類の任務である。

 それでも、ありとあらゆる困難を越えて、海軍航空部隊の搭乗員たち、整備員たちはあの大戦争で連合軍に立ち向かった。全体としては先がない、勝てない戦を続け、最後には特攻出撃となり、特攻と銘をうたなくても殆ど生還を期待できない出撃となった。

 今日、あんな戦争をしてはいけないという感想が多いが、筆者はこの要覧をまとめて見て、その感が強い。同じ言葉の感想でも、彼我多数の一般市民が巻き添えにしたという局面とか、世界中を相手にした孤独で無謀な戦にしたという政治の次元とか、特攻などという非情で統帥の外道とも言われた作戦とか、様々な捉え方があろう。

 しかし、筆者にはこんな過重な任務を背負って戦った人々、全体としては小数の人々の負荷を思う時、あんな戦争はいくら何でもひどいと思われてならない。戦争後半の海軍基地航空部隊の搭乗員と基地員たちは、必死に前線を支え、破れてもなお立ち向かい、その不屈な敢闘には全く頭が下がる思いである。戦没された方々、苦闘された方々の鎮魂を祈るばかりである。

 なお、既存の資料には欠けた部分もあり、筆者の手元の資料からは、この要覧の内容が差し詰め限界である。特に、戦役者については、その思いが強い。

 士官は兎も角、特務士官准士官の人事については、潜水艦部隊の記録と同様に、今回も一部の収録に留まった。航空機搭乗員でベテランの特務士官准士官の存在は、士官と並び組織の核であるが、この分野の記録は全体に調べ難く、回想録なども総じて少ない。

 予科練登場前の搭乗員たちの記録は実に少なく、予科練全体を詳述しようとした著述も少なく、元海軍教授倉町斯次氏の「予科練外史」も、後半が出版されなかった。

 若い知人の医師安井拓哉氏は、特務士官准士官の名簿作成に取り組まれており、貴重な資料も頂いたが、何分にも資料集めが難しい分野なので、そのご苦労のほどが筆者には分かる思いがする。ご健闘を祈ってやまない。

 さて、便覧のまとめ方について、いくつかご理解を得たいことがある。作戦命令とか方針等の命令文の多くは、筆者が適当に要約したものが殆どである。彼我の航空機等の性能要目等については、他書に譲り省略。戦果の記載も簡略化し、戦闘における損耗に重点を置いた。戦没者の氏名は分かる限り収録に努めたが、数字のみとなった箇所が多い。

 人事異動前後の職務についても、海軍航空隊の「海軍」の冠称を省いたり、「○○部部員」を「○○部員」としたり、「○○被仰付」は、鎮守府附の場合は殆ど省いた。その他の場合は、必要と思われる箇所のみとした。

 階級については、昭和17年秋以降、機関科の冠称が廃止され、のちに特務士官につても冠称が廃止されているが、組織の構成を理解するため、引き続きこの冠称を付けた。予備役応召の方については(召)と便宜表示、戦没者等については死没進級前の階級とし、進級と特進を付記した。

 なお、今回の各航空隊の要覧は、大正年間とか、昭和10年までとか、各期間を区切り整理するのではなく、開隊の順に並べ、解隊までを通して記述することにした。最初の横須賀海軍航空隊のように長い記述になるものがあり、読み辛い面があろうかと思われるが、ご容赦頂きたい。(「まえがき」より・平成21年3月)

一、草創期の海軍航空隊、明治末から大正へ。

 明治36年(1903)、ライト兄弟が米国のキティホークにおいて、ガソリンエンジンの飛行機を初めて地上から浮揚させることに成功。それから6年後、明治42年(1909)5月25日、日本海軍では、相原四郎海軍大尉、小濱方彦海軍機関大尉が、航空に関する研究に当たるため海軍大学校選科学生に発令された。

 欧米ではその頃、仏国ブレリオ式飛行機が英仏海峡を横断する飛行に成功しており、海軍軍令部参謀山本英輔少佐(のち大将、初代の航空本部長)は、飛行機の軍用的な利用価値に着目、海軍としては先ず、前記の2名士官に飛行機の研究をとなった。

 同じく明治42年のその頃、時の陸相寺内正毅(のち大将、首相)は、齋藤實海相(のち大将、首相、二二六事件で殺害される)に対し、航空兵器の共同研究を持ち掛けた。寺内陸相は桂太郎首相(同じ長州出身、陸軍大将)から軍事予算60万円を貰い、7月20日、臨時軍用気球研究委員会の官制が発令される。

 この研究会は、気球および飛行機に関する研究を目的とし、陸海両相に隷属する変わった組織となる。これまでの地上と海上の戦闘だけでなく、空中という未知の分野の戦闘に、新しい航空兵器の登場を予知したもので、その軍事的な利用価値について、陸海軍共同で取り組もうとするものだった。

 維新以来、政府と軍首脳にあった長州閥は、新兵器には常に旺盛な好奇心を持ち、リスクの多いその取り入れに躊躇うことがない集団で、その伝統的な態度は相変わらず健在だった。

 当時、航空兵器として利用価値が認められたのは気球で、単なる係留式の気球だけでなく、大空に飛ばす移動連絡用の兵器として、飛行船の登場が示唆されていた。しかし、飛行機は未だ海のものとも山のものとも区別がつかず、その利用価値はこれからという段階だった。

 従って、予算をつけてとなると、気球が先ず頭に来る名称の研究会が判り易い。また、研究内容や対象を隠すためにも、この名称が無難だったようである。

 臨時軍用気球研究委員会は、陸軍省軍務局長の長岡外史中将(歩兵、山口)を委員長とし、海軍からは海軍省人事局長山屋他人大佐(のち大将)のほか、前記2名の海軍大学校選科学生が委員を命じられている。

 この研究委員会は、発足の経緯からも陸軍の主導となり、海軍はお相伴のような役割に終始し、あまり得るところがなかったと言われる。気球は陸海軍とも、弾着観測と偵察監視、のちに阻塞と防御の用途で留まり、それ以上の発展はなかった

 機械製造が遅れた我が国の力量では、飛行機よりも、気球の延長線上にある飛行船に、どうしても目が行く状態で、研究の対象は飛行機だけに集中せず、初めはかなり分散する様相となっている。委員会が大正9年5月14日に廃止されるまで、海軍としてはお付き合いような格好になったと言える。

 前記の相原四郎大尉は、明治43年2月19日、ドイツ駐在を命じられ、操縦の習得ほか飛行機の研究に当たったが、明治44年1月4日、ベルリン付近において飛行練習中に発動機の故障で不時着した際、機外に投げ出され、8日に死亡、公務死と認定された。海軍最初の操縦者で最初の航空事故死は、異国での殉職だった。

 殉職した相原四郎大尉に代わり、明治43年5月23日、海軍大学校選科学生となった金子養三大尉は、明治44年3月1日、フランス駐在を命じられ、操縦の習得に当たった。金子大尉は翌年秋、ファルマン式水上機を携えて帰国している。

 明治43年12月1日、山下誠一機関大尉、明治44年3月23日、梅北兼彦大尉、同年6月1日、河野三吉大尉、7月26日、中島知久平機関大尉(のち航空機製作会社を経営)が、いずれも海軍大学校選科学生に発令され、臨時軍用気球研究会に参加している。

 この間、欧州の視察から帰った飯田久恒中佐は、急速に性能が進歩する飛行機は、近い将来に航空母艦の開発をもたらすと予測。臨時軍用気球研究会から手を引き、海軍独自の研究を急ぐべきだと意見を具申。仏国駐在の松村菊雄少佐からも、同様の意見が寄せられた。

 元々、海軍としては、まったく性格が異なる陸軍との共同研究では、協同研究の接点と意義よりも、急速に進歩する機種を追って、独自の組織と施設を持ち、操縦将校の養成を始めることが必要だ、となった。明治45年に海軍は航空研究費10万円を獲得して、6月に航空技術研究委員会が設置されることになった。

 この委員会は、大正2年に運送船若宮丸を母艦代わりにして、ファルマン式2機、カーチィス式1機を搭載して、佐世保方面における海軍演習に参加した。航空研究委員会という名称の小部隊の発足だった。

 大正3年夏、第一次世界大戦に若宮丸以下は、中国山東半島の青島攻略作戦に参加し、前記の航空研究委員会が発足して2年目に、実戦に参加することになる。そして、大正3年3月に、海軍航空隊令が発布され、大正5年4月、横須賀海軍航空隊が発足。大正5年 9月、艦隊内編制として、艦隊航空隊が発足している。

 航空母艦という類別でも、貨物船を転用した水上機母艦が主で、のちの母艦部隊のように飛行機隊が常時搭載される編制ではなく、演習など必要に応じて搭載される仕組みだった。

 日本海軍航空隊の歴史は、気球、水上機、飛行船から始まるわけで、最初の航空隊となる横須賀航空隊は、発足当初は航空母艦若宮を隊に付属させ、水上機に重点が置かれる部隊となった。

 陸上基地を利用する飛行機隊は、大正10年10月に世界初の航空母艦として建造に着手する鳳翔に、艦上機として搭載を予定された飛行機隊が、訓練と整備のために陸上基地を必要としたことに始まる。

 四半世紀後に、航空母艦、水上機母艦に搭載されない陸上機部隊と水上機部隊は、軍港などの防備に留まらず、母艦航空機隊と肩を並べる規模に拡大されることになるが、この初期の段楷、概ね大正末までの期間は、内地の各軍港に防備の航空隊が設置されるまでの段階で、水上機、次いで航空母艦に搭載する艦上機の開発が先行した。

 のちの基地航空部隊の母体となる陸上機部隊については、未だ漠然としていた段階で、横須賀海軍航空隊等において検討、模索の段階でした。

 大正5年4月、横須賀海軍航空隊が発足後、大正8年12月、佐世保海軍航空隊が発足。大正11年秋に、霞ケ浦、大村の両海軍航空隊が発足。この間、横須賀海軍航空隊には、航空船隊が編成されている。

 この明治末の航空技術研究委員会と、それを引き継いだ横須賀海軍航空隊は、のちに海軍航空部隊の幹部となる提督たちが、学生から初級士官として集まり、大正年間の各海軍航空隊を生み出す母体となっている。

 なお、臨時軍用気球研究会は、大正9年(1920)5月に廃止されたが、同年12月、臨時陸海軍航空協定委員会が設けられ、陸海軍航空の全面的または部分的統合の利害得失を共同研究することになった。

 陸軍からの申し入れであるが、陸海軍の垣根を越えて、航空部隊を統合運営する発想は、列強各国と同様に我が国でもあまり意識されない課題であった。折角、陸海軍共同の研究会を組織しながら、統合は不可能という結論に達し、この委員会は大正12年(1923)12月に解散となったのである。

 

 


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