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かつて小和田哲男氏の『呪術と占星の戦国史』(新潮選書)を読み、最近はやりの城郭論・戦場論もすべて実態のない学者の空論に過ぎないことを教えられた。そして、氏の論の延長線上に、以下の論考をまとめてみたかった。 例を挙げれば、伊勢の慶光院五代周清上人の画像の讃に「王公之に帰し、士民之を仰ぐ」とあるように、女性の霊的能力に対する尊敬である。そして、各々の家の女主人は家を守るためにも、敗者の霊を祀る必要があったのである。 元和2年、秀忠の妻お江与は京都の養源院で、淀君・秀頼・国松の一周忌を実施する。その後、火災で焼失した寺を、元和7年、伏見城の書院を移築・再建したのも、お江与である。今日現存する、血天井で有名な寺である。 そもそも養源院は文禄3年、淀君が父浅井長政の21回忌のために建てた寺である。住職は浅井一族で、当然、母お市の方・亡弟万福丸・養父柴田勝家の供養も行われたのである。最初の秀吉との間に出来た子鶴松が病死したことと、弟万福丸が串刺しにされて殺害されたことと関係があると神占したのは、恐らく慶光院であり、その縁で大坂に屋敷を与えられたと思われる。 同様に天正19年、秀吉の母が熱田上人の誓願寺(名古屋市熱田区)を参拝したのも、対明・朝鮮への秀吉の宣戦布告と連動するものであった。同寺にある頼朝祠に詣で、秀次に命じて土地を寄進させたのも、上人への戦勝祈祷への初穂と思われる。 元和7年、千姫(天樹院)が上人の勅許を援助したのも、前年の和子入内と、家光元服との関わりが考えられる。そして元和9年、江戸御台所(お江与)の命により、100石寄進されたのも、家光の将軍就任と連動するものであった。 また、徳川和子や江戸大奥から両上人への祈誓の内容は、皇子誕生と家光に男子が誕生することであったと思われる。 家康の側室お亀の方(相応院)の存在が尾張藩だけの問題でなく、当時の戦争の在り方を再考する上でも重要と思われる。つまり、御陣女郎の果たした役割を、筆者の所蔵する『浪速戦記大全』等を基にして、旗指物にまで及んでいることを考察した。 従来、春日局にのみ焦点が当てられていたが、徳川政権確立期に千姫の果たした役割は、徳川和子とともに忘れてはならない。京都の知恩院にある千姫の墓、それを守護する濡髪堂に祀られる荼吉尼天(だきにてん)。死後の世界まで秀頼の生き霊に苦しめられる彼女を想定したのは、寂照寺(伊勢市)の住職から知恩院第三十七世になった寂照知鑑以外に考えられない。 千姫も秀頼同様、徳川政権確立のための犠牲者であったのである。秀頼との仲や淀君と疎遠であったというのは俗説である。 山田雄司氏の『跋扈する怨霊〜祟りと鎮魂の日本史』(吉川弘文館)は我々に色々な示唆を与えてくれるが、なかでも怨親平等の思想である。敵も味方も平等であるとし、敵味方人畜の区別なく供養する思想が、近代以前の日本人には存在したという事実である。 仮に秀吉が戦前の日本のように、朝鮮や満州の支配に成功したとすると、彼が朝鮮神社・満州神社に天照大神を祭神としたであろうか、否である。靖国神社が日本人の信仰から異例なのも、そこにある。彼も述べているように、秀吉の耳塚もそうした観点から見直す必要もあるのである。 『朝鮮征伐記』には耳塚のことを「東山大仏殿の前に塚を築き納入れ、僧を供養し弔ひ給ふ。日本末代迄の威光赫奕(かくえき)たり。此塚を耳塚と名づけ、児童迄も其徳を頌せり。其後朝鮮人来朝する時は、国の為に死を輸したる輩なりとて、祭文を作り哭泣し、此耳塚を祭りけるとぞ聞えし」とあり、秀吉の武威の表示であると同時に、鎮魂であったことは、その後、秀頼も供養していることで明らかである。 両上人や鳥羽の桂女の江戸参府や宮中での活躍は、江戸では家光・千姫まで、宮中では東福門院和子までであり、それは「覇王」から「聖王」への転換を意味するものであった。ここに家光を理想の君主として描き出す必要があり、新井白石で完成される三輔臣説話が成立するのである。(「はじめに」より) |