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■尾張藩在郷名家録
村々の有力者が分かる! 名家を知る貴重なデータブック

 名家を語るエピソードとして「他人の土地を踏まずに隣村まで行けた」とか、あるいはまた「殿様がお立ち寄りになった」などといったたぐいの話をしばしば耳にする。しかし、そうしたことが具体的な史料で裏付けられるケースはきわめてまれである。これは時を経るに連れて誇張され、誤ったまま語り継がれてきたからでもあろう。

 このたび復刻した『尾張藩在郷名家録』は安政4年(1857)、同5年時点の苗字や帯刀などを許された人(家)を一冊にまとめ上げたものである。江戸時代、武士の素姓に関する史料はそれなりに残されているが、庶民の側のものとなるときわめて少ないのが現実である。藩内の農村部の状況がこうしてまとまった形で書き残されていたのは注目に値する。

 これを書写したのは蟹江新田の戸谷逸五郎という人だった。約300頁にわたって苗字帯刀などの許された人を細々と書き並べている。大作であるうえに達筆なところを見ると、ひょっとしたらだれかに依頼して写させたのかもしれない。

 また、どうして彼がこの文書を借りられたかも、考えてみると興味深いものがある。これは本来、藩側にあってしかるべきものだ。しかも彼の属する佐屋代官所管内だけではなく、尾張藩内の濃尾11代官所内すべてを納めている。

 名家に数えられていた戸谷家の屋敷もいまはなく、それ故に伝来の文書類も散逸してしまったのだろう。これもそうした中の一つで、解説を書いていただいた鬼頭勝之先生が骨董市で入手された。この家に限らず栄枯盛衰は世の常である。

 いま名家と言われているところも、果たして本書の中にあるかどうか。逆に、記載されてはいても、現実に家がないところも多かろう。しかし、ここに書かれている人々はこの時点において、藩からまぎれもなく「お墨付き」をもらっていた証明と言える。

 小社では先に3000余名を収録した嘉永5年(1852)時点の『尾張藩士録』を出版した。これも当時の武士たちの地位を明らかにした好史料で、研究者や図書館などからは重宝がられた。今度のものは一般からの名家を集大成したもので、村々にあった有力者を知るのにまたとない史料と言えよう。

 内容は代官所別に人名とその村を挙げ、苗字・帯刀・御目見など、それぞれの待遇を記している。これを見ていると、あの時代に苗字をもらうことがいかに名誉なことだったかが分かるようでもある。また、地域ごとに見られる特有の苗字も、これから知ることができて面白い。

 そうした苗字も一代限りだけではなく、中には数代にわたって許されたケースもある。その背後には藩への献金額などがものを言っていたのだろうが、それをできるだけの財力があったからこそ名家となり得た。多少とも郷土史に関心のある方なら、この中で名を知る人もかなりあるのではなかろうか。

 この本では代官所別の総人口も記されている。それによると、安政4年時点の人口は11代官所内で71万7515人だった。これには名古屋城下と熱田・岐阜の町方は含まれていない。

 だれがどこに住み、どんな待遇を得ていたのか――本書は豪農を中心とした在郷の有力者を明らかにしており、先に出版した『尾張藩士録』と並んで尾張藩研究のための格好の史料となるにちがいない。B5判・368頁・定価9000円+税

 

本書の意義とその背景 本書の「解説」より

 本影印本は『尾張藩士録』と対をなすものとして、今後の尾張藩研究になくてはならないものになると思われる。この影印本と一部同様の内容のものは『新編一宮市史』資料編十巻にあるが、総人口の記載もなく、独礼者の区別等もなく、かつ安政4年と5年との両年の記録ではないので、本影印本をまって初めて全容を現したと言えよう。

 しかも『新編一宮市史』で「銘々階級御免許人別覚」とあり、この記録者に階級の意識があることは一宮周辺における幕末期での、資本の原始的蓄積の状況を反映していると思われる。古い支配体制の中で、土地を集積した新たな資本家は、献金による新たな階級形成に自己の確立を夢見たにちがいない。そして、明治維新はより現実的に彼らの夢を実現するチャンスとして、名古屋に進出することとなるのである。

 付録一(ここでは省略)の「百姓共苗字帯刀并御目見自分一札差免方取扱究」は本影印本の背後を探る貴重な史料である。享和3年(1803)に取り決められた内容には注目すべき事実がある。

 まず尾張藩では従来最初に帯刀を許可し、その後に苗字を与えていた。しかし、幕府では苗字のみを許可し、帯刀は特別な例以外に許していなかったのである。だから幕府同様、苗字を先に帯刀はより重いものとして扱い、改め替えの時に順次、帯刀を苗字に差し替えると決定したことである。

 この事実は濃尾両国の中世から近世への移行を考える上で重要なことと思われる。現代の米国同様、多くの戦国武将を輩出した風土は、名誉より自らの権利は自らで守るという意味での帯刀に象徴的意味を見いだしたのではないだろうか。

 また、大金を調達した場合、苗字帯刀を新規に一度に認めるという項目以外、その他の項目は政治的・社会的功績による評価となっている。そして、苗字認定後十カ年を経て、由緒を加味して帯刀を許可するとなっている。かくして苗字帯刀を獲得して初めて御目見の権利を得るのである。以下、その過程を略図すれば左記のごとくである。

苗字御免→帯刀御免→一統御目見→宗門自分一札→名披露御目見→独礼御目見→熨斗目着用御免→肩衣着用御免

 なお、『佐屋町史』史料編三巻には、十代藩主斉朝入部時の文化8年(1811)、「百姓共御目見一巻」があり、黒宮氏の献金記録もあるので、それに対する必要経費も研究できると思われる。

 付録二(省略)の「片岡喜平次御用向覚書」は商方をも含めた御目見の実際を把握できる貴重な史料である。そして、安政5年という本記録と重なる点も重要である。安政5年正月6日の御目見が、名披露御目見の場合はそれぞれの座席も確定できる形で、図付で記録されているのである。

 付録三(省略)は御目見に出席した側の、その日、一日の貴重な記録である。また、戸谷氏に出された切紙は藩の借財返還のための献金要請であり、その結果としての身分獲得であることを語っているが、この戸谷氏の場合は10カ年に100両の献金であったようである。

 以上、この影印と付録史料によって在郷の有力者が分かるだけでなく、町方に依存していた献金の比重を在郷に頼らざるを得なくなってきた幕末の状況も理解されるのである。

 島崎藤村の『夜明け前』や天誅組の乱、新撰組等で明らかなように、地方の豪農が財力だけでなく、新たな知識人として主張し始めたことも忘れてはいけない。このことは従来、明倫堂の廻村教諭等で受け身の形でのみ語られてきたが、明倫堂の釈菜(せきさい・孔子を祭る略式の典礼)に参加するということに意義を見いだす豪農の存在を忘れてはならないのである。(古文書に親しむ会講師 鬼頭勝之)

 


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