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飾北斎が89歳のときに描いたという信州小布施・岩松院本堂にある天井絵「八方睨み鳳凰図」。北斎最晩年の直筆ということで話題を呼び、町おこしの起爆剤にもなったものだが、老齢の北斎が江戸から240キロも離れた小布施の地まではるばる歩いてこられるわけがない。いつも付き添っていた北斎の娘お栄(葛飾応為)、地元の豪農で画家でもあった高井鴻山、あるいは北斎の弟子葛飾為斎……。名前はいろいろ挙げられているがいずれも決め手を欠いている。それでは一体、だれがこれを描いていたのか。 1、北斎の町、北信州の小布施とは
一、 菜の花が広がる千曲川の河川敷
二、 東町の屋台天井に北斎ならではの絵 三、 北斎、高井鴻山を頼り小布施へ 四、 見事!岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」 五、 諸説出ても“決定打”が出ない 六、小布施の近くに、福島正則終焉の地 2、だれが描いた「八方睨み鳳凰図」
一、 小布施とその周辺で野村作十郎を探せ
二、 冨昌に成り切っていた作十郎 三、 作十郎はやはり小布施の近くにいた 四、 作十郎はここでも冨昌を名乗る 五、 岡崎に「八方睨み」に似た「天女」の絵 六、 筆跡・絵具なども含め、確かな鑑定を 七、「独りで半纏にゾウリ履きの姿で来た」 八、 鴻山もきっと作十郎と出会っていた 左甚五郎の作としてあまりにも有名な日光東照宮の眠り猫。東照宮は三代将軍徳川家光のとき、いま見られるような姿に建て替えられた。眠り猫が作られたのも、このときとされている。しかし、あれほど有名な彫刻なら、旅日記などに記され、歌に詠われていても、おかしくはない。それが観光案内とも言える江戸後期の名所図会などにもないし、日光を訪れた松尾芭蕉もこれに注目していない。というこうは、まだなかったのか、あるいは、あっても話題にもされてもいなかったのではないのか。左甚五郎作と言われている背景を探っていくと……。 1、眠り猫は本当に左甚五郎の作なのか
一、いまも人気の的、左甚五郎の眠り猫
二、将軍徳川家光が改築「寛永の大造替」 三、眠り猫を彫ったのは作十郎ではないか 四、眠り猫はいつごろ作られたのか 五、神社側「寛永の大造替のときの作」 六、吹き荒れる神仏分離と廃仏毀釈の中で 2、眠り猫にもちらつく作十郎の影
一、本当に江戸時代前期の作なのか
二、眠り猫、『名所図会』類にも記載なし 三、左甚五郎の背後に作十郎あり 四、姿を現した瀬戸定光寺での作十郎 五、作十郎、立川を代表し、江戸でも大活躍 六、日光の老舗ホテルにも手掛かりなし 七、姫路にも作十郎を思わせる作品 八、日光稲荷町本家体が語りかけてくるもの ●野村作十郎年譜 |