高度成長期の裏側を活写
写真家 英 伸三
農村からの出稼ぎ労働者が年間100万人を超えた1970年代。河辺育三さんは地元名古屋の地下鉄工事現場や建設現場に密着し、コンクリートや泥にまみれた労働者と、現場でザコ寝の暮らしの姿を10年間にわたって撮り続けた。その写真は彼らを励ますように明るく力強く、ユーモラスでさえある。
本書のタイトルは「出稼ぎ哀歌」だが、一人一人の表情は労働者としての人間的魅力にあふれ、「出稼ぎ賛歌」を奏でている。日本人が懸命に働いた、高度経済成長期の貴重な記録である。
河辺さんの“眼”
元中日新聞論説委員 川村範行
河辺さんはいつも声を上げていた。矛先は「不正」に向く。世の中のおかしいこと、間違ったことに人一倍敏感だ。“証拠”を入手し、突きつける。記者としてお尻を叩かれたことが何度かある。生ぬるい対応をすると見透かされる。怖い人である。
この写真集には河辺さんのもう一つの“眼”が写っている。故郷を離れて過酷な条件のもとで肉体労働の日々を送る人たちへの、愛情と同情が入り混じっている。彼らを生んだ日本社会への、河辺さん独特の鋭い視線が込められている。時代を映す、怖い“眼”である。
カメラに取りつかれた男
妻 河辺淑子
ピカドンを倉橋島の海で見たという少年は、できたての新制高校時代、写真クラブに入って現像をしたことがあるという。生活を共にし始めてから写真魂が持ち上がってきたのか、誘われて写真撮影に参加するようにもなっていた。
暗幕を張った部屋の中の、さらに奥の押入で、生フィルムを切り分けて、フィルム代を節約した。コダック社の現像液を割合だけ読み取って調合し、手探りの作業で暗闇の中に浮かび上がってくる映像を楽しみにしていた。そのころは自分で白黒の割合を工夫していた。
1970年前後はカメラ雑誌が普及し、一度、コンテストで高く評価され、それ以来、熱心に出品するようになった。働く者への心からの共感とその視点はそこで鍛えられ、後の作品を生み出す原動力となった。また、報道カメラでもネガを新聞社に持ち込み、紙面を飾ることもしばしばあった。
カラー写真への移行期は引き伸ばしが高価で、カメラから遠ざかっていたが、その後の年月はまた写真を身近にできるようにした。少年は老人になったものの、いまもカバンの中にカメラを入れていることに変わりはない。
河辺育三(かわべ・いくぞう)
1934年(昭和9年)、広島県・倉橋島で生まれる。名城大学理工学部卒。定年までフジタ工業名古屋支店に勤務。
若いころはスポーツにかけ、高校で5000メートル、大学で1万メートルの選手。趣味はカメラ、絵画鑑賞など。
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