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■出稼ぎ哀歌―河辺育三写真集

働く姿に魅せられて−−河辺育三さんに聞く

 若いころ、河辺さんはゼネコンの名古屋支店に席を置き、工事現場の責任者の一人として活躍された。気さくな人柄と持ち前の正義感もあって、現場で働く人たちから“べえさん”の愛称で親しまれた。この河辺さんが写真を撮り続けることになったのは−−。

(聞き手・店主 舟橋武志)

1、これはワシにしか撮れん写真じゃ

−−ようやく校正用の見本ができてきました。これに今回のインタビューを差し込めば完成です。

河辺 おお、いいねえ。ワシが撮ったやつが、こんなふうに。

−−膨大な写真の中からこれだけを選んだわけですが、いい写真集になりそうですよ。

河辺 写真集を出すのが長年の夢だった。こんな写真集はあんまりないでしょ。

−−ない、ない。思い出してみると、河辺さんに初めてお会いしたのが1971年(昭和46年)のことでした。ぼくが28歳のときで、河辺さんが37歳ということになりますね。

河辺 おたがいに年を取ったもんだわ。今年77、喜寿だでねえ。いまにお迎えが来てもおかしくない。

−−何をおっしゃいますか、ご冗談を。あのときお会いしたのはぼくが『名古屋ジャーナル』という雑誌を創刊することになり、巻頭写真として真っ先に思い浮かんだのが河辺さんでした。

河辺 いまもその雑誌、持っとるよ。ワシの写真を初めて特集で載せてもらえたもんで、あのときはうれしかった。今度の写真集にはそのときのものもかなりある。

−−あれ以来、すっかりご無沙汰していましたが、偶然お会いしたのが古書店の会場でした。2年ほど前でしたか。

河辺 あのとき出会っていなかったら、これはなかったわけだでね。よかった、感謝したい。

−−いや、お会いしてから、あの写真は何とか本にして残しておかなくてはノノと思えてきて。やっと出せるときが来ました。

河辺 いつできあがってくるか、いまからワクワクしとるよ。これまでいろいろな写真を撮ってきたが、工事現場で働く人たちの姿を撮ったのがもっともワシらしい作品だで。

2、汗して働くことは大変だ

−−いまでは河辺さんの撮られた一枚一枚が貴重な記録です。現在の名古屋の基盤もあのころにできてきたと言っても過言ではないほど。

河辺 その土台を造ったのは農民出身の彼らですよ。名古屋の都市建設に汗水たらす、そんな彼らの仕事ぶりを市民にも広く知ってもらいたいとの思いもあった。こうした工事現場では特別の技術者を除けばほとんど……そうだね、8割ぐらいを彼らが占めていた。

−−今回、収録した写真はいつごろのものですか。

河辺 中心は1970年代、昭和の年号で言えば、昭和40年の代の後半から50年代の後半にかけてのものだね。わが国が高度成長期に入り、名古屋でも地下鉄工事や水道工事、宅地開発などが多くなった。彼らの働く姿を追って、あちこちの工事現場をよく駆けずり回った。

−−この写真は河辺さんでしか撮れませんね。たとえプロのカメラマンが入り込んだとしても、ここに見られるような素顔は撮らせてくれなかったでしょうから。

河辺 みんないっしょに働く仲間たちだからね。ワシ自身も広島の小さな島から出てきて、名古屋で働いている身だったし。彼らの故郷や家族を思う気持ちも痛いほどよく分かった。

−−もちろん、職務ということもあったでしょうが、河辺さんの人柄が大きいと思いますよ。どういう動機で撮り始められましたか。

河辺 中学のときにカメラ好きの小児科医に教えてもらい、高校のとき初めてジャバラ式のカメラを手にした。その高校では写真クラブに入り、現像や焼き付けを覚えた。でも、本格的にやり出したのは地下鉄工事の現場に配属されてからで、彼らの働いている姿を見ていて「たくましい」「これを撮らなければ」と思ったことだった。

−−まさに河辺さんならではのテーマでしたね。

河辺 先ほど名古屋市民にも知ってもらいたかったと言ったけど、もともとはこんな単純な動機からだった。この人たちは故郷や妻子のことばっかり考えているくせに、ちっとも手紙を書かんのだよ。よし、それならこの元気な姿を撮って、家族に送り届けてやろうと。それが喜ばれて深入りし、現場だけではなく宿舎にも入り込むようになって。

−−そこですよ、河辺さんでないと撮れないのは。

河辺 初めは働く姿に引き付けられて写し始めたけど、だんだん悲しい写真になっていることが多くなってきて。見た目だけのものではない、これは真剣に撮り続けなければならんと思えてきた。

3、彼らの仕事を市民にも知らせたい

−−河辺さんがマスコミに登場されたのは地下鉄「平安通」駅構内でされた写真展でしたね。あのときは新聞各紙が一斉に取り上げ、こんな人がいるんだと広く知られるようになりました。

河辺 一人でも多くの市民に、見えないところで働いている彼らのことを知ってもらいたかった。あのときは「出稼ぎの歌」と題してスナップ写真をペタペタ並べたくらいだったけど、その傍らにノートを置いて感想などを書いてもらったりもした。

−−それがよかったですよ、ギャラリーなどでやるよりも。

河辺 そんな金はなかった。そのノートにはいろんなことが書いてあってねえ。32歳という主婦は「死のうと思っていた自分が恥ずかしい」と書いていた。どんな事情があったかは知らないが、あのときはワシにも人助けができたかなと思った。

−−多くの人が被写体になってくれたわけですが、その主な出身地は?

河辺 九州や四国から来ている人もいたが、その多くは北海道や東北だった。お国言葉も違えば、生活も違っている。が、みんな素朴で真面目でよく働き、意外なほど明るかった。故郷から来た一枚の葉書に涙するのもそんな彼らだった。

−−でも、仕事はきつく、そんなに給料もよくなかったのではノノ。

河辺 当時の金で1ケ月働いて10万円くらい。ある人はその中から9万円を家へ送っていた。残りの1万円がその月のこづかいだが、5000円は帰郷の費用とみやげ代に預金しているんですよ。

−−地元名古屋の人はこういうところにいないでしょ?

河辺 安くて来ない。地元の労働力に頼っていたのでは、人件費が3割以上アップしていたはず。安く上げるにはどうしても賃金の安い彼らに頼らざるを得ない。それが現実でした。  

4、農閑期にはみんな都会へ出てきた

−−工業化だ、減反だという政策の中で、彼らは追い出されるように都会へ出てこざるを得なかった。そう言えば、冷害などもあったりしましたしね。

河辺 一つのパターンは農繁期が終わると、半年ぐらいは都会に出てきて稼ぐというのが始まり。やがてその農業でも生計が成り立たなくなると、10ケ月とか1年のほとんどをこちらで過ごすようになる。帰れるのは盆と正月の年2回くらいになってしまって。

−−都会と農村との、そんな格差の激しい時代でしたね。

河辺 初めは父ちゃんだけだったが、後には子供をじいちゃんやばあちゃんに任せ、母ちゃんまでも出てくる。撮り始めたころは元気でいる写真を家族に送ってあげていたけど、これはおかしいんじゃないかと考えるようにもなってきた。

−−本当ですね。いくら金銭的に恵まれたとしても、親子・家族がいっしょに暮らせないのでは……。

河辺 ここに一通の手紙があります(と言って差し出す)。

 「母ちゃん、元気で暮らしていますか。母ちゃんからの手紙がきた時、うれしいでした。手紙を読んでいると、涙が出てきました。

 母ちゃん達の仕事は土の中でしているそうですね。父ちゃんは電話をするといっていたのに、かけてくれなかった。弟を起こしても起きないので、どうしたら起きるか教えてください」

 こんな話はいっぱいですよ。泣けてきます。

−−確か『村の女は眠れない』という詩集が話題になったのもこの時代でしたね。

河辺 まだ初めは規模の小さい農家の人たちだったが、だんだん大きな農家の人たちも出てくるようになり、しまいには村長をやってたような人たちまで出てくるようになって。中には村の男の働き手がいなくなるといったところまであった。当時の農村の荒廃ぶり、それで繁栄する都会の格差のひどさが現場にいてもよく分かった。

−−そうした構造は基本的にいまも変わっていませんよ。

河辺 変わらないでしょ。最近の建設現場は機械化されてきてはいますが、基礎となる作業はいまも人手に頼らざるを得ない。それに外国人の労働者では難しいところもあるし。

5、厳しいけど心休まる飯場の生活

−−河辺さんの写真には飯場の写真も多くある。休みのときなどには河辺さんもよく足を運ばれていますね。

河辺 暇を見つけては撮りまくっていた。中には「撮ってくれたのはいいが、おらのこんな姿みせたらカカさ、口あんぐりだべ」などと言う人もいたりして。それでもどんどん撮り、みんなに送って喜んでもらえた。

−−撮影の様子が浮かんでくるようですよ。河辺さんに「ちょっと、こっち向いて」「御飯、食べた」などと声をかけられたら、だれも嫌とは言えないでしょう。

河辺 そういう彼らの生活も厳しいもんでしたよ。働いて帰り、風呂を浴びて、テレビ見て、ただ寝るだけ。一杯やるのが楽しみだが、朝が早いので深酒は禁物。テレビで「ふるさとの歌まつり」なんかがあると、涙を流して見ていたりして……。

−−そんな光景も写真集にはいっぱい出てきていますよ。

河辺 中にはこの道20年なんていう飯場の主のような人もいて、どうしてこうも一生懸命に働くのかと聞いたら、「カカさと2人、年取ってからもいいように、ゼニコさためておかねば、な」と。ワシも若い者に「遊びに来とるんじゃないぞ。1円でも多く仕送りしよ」と口うるさく言って、結構嫌われとった。

−−写真を見ていると、家族ぐるみで来ている人もいますね。

河辺 別々に暮らすのではなく、こちらに来てしまう人もいる。その人はまだ幸せですよ。多くの人たちは土地を離れることがなかなかできない。親子がばらばらになって暮らすというのは残酷なことです。

−−子供たちの笑顔にほっとするものがありました。

河辺 飯場では子供たちは宝物です。元気な声が仕事への励みにもなるし、置いてきた自分の子供がだぶって見えてきたりもする。そんな子供たちもよく撮った。

6、厳しいけれども働き先はあった

−−この写真集は働く人たちのたくましさであふれていますよ。

河辺 あのころ、日本人はだれもが懸命に働いた。働けばそれなりの収入を手にできた。働くことが明日への希望につながっていた。そんな時代でもあったねえ。

−−日本経済や都会の暮らしはこうした地方の農民によって支えられてきたと言っても過言ではないほど。でも、当時の経済は右肩上がりのまだいい時代でした。

河辺 働く意志があれば、働き口はあったからね。その意味では働きたくても勤め先のない、いまの方が事態は深刻と言えるかも。「フリーター」とか「派遣」とかいった言葉もなかったし。しかし、いつの時代も底辺にいる人がしいたげられてきたのには変わりがないんじゃないの。

−−農村の犠牲の上に都会の繁栄がある。本来なら共存共栄でなくてはならないのに。この写真集は過去の記録にとどまらず、いまにも訴えかけるものがありますよ。

河辺 われわれの快適な暮らしの背後にはそういうものがあるということ。今度の原発の事故も同じような構図を浮き彫りにした。農村の繁栄なくして都会の繁栄もないと考えられる都会人にならないと。

−−編集をしていても、この人たちはいまどうされているのか、と思ったものです。東北の人たちが多かったから、今度の大震災の影響が思いやられます。

河辺 これにはワシも胸を痛めとる。中には年賀状のやり取りをしている人もいるが、どうか無事でこの危機を乗り越えてほしい。今度は都会が応援すべきときだ。私も微力ながらカンパをしたり、東北の産品を購入するなど、働く仲間たちのことを思い出しながら努力しとりますよ。

−−これでまた村を追い出されるようなことがなければいいが。大震災を契機に新しい、人間らしい農村像が描かれてなくてはならないですね。今日はどうもありがとうございました。

 

 

 


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