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名古屋の地名とその由来
中村・中川両区で考える

 平成の大合併で地名への関心が高まっている。私たちの住む町名はどういう背景から生まれてたきのだろうか。地名の由来を知ると、町に一層愛着がわいてくるのでは――。

 

地名の多くは地形から来ている

 地名の多くは特徴的な地形から来ていることが多い。高須賀町や富田町長須賀(いずれも中川区)の「須賀」は「洲」に場所を示す「処(カ)」で、「洲のあるところ」すなわち砂地を意味している。横須賀・大須賀などの「須賀」は川や海辺でよく見られる地名だ。

 長良(中川区)の由来については諸説あるが、川の「流れ」の語幹「ナガ」に、これまた「ここら」「そこら」などの場所を示す「ラ」が付いてできたものと思われる。江戸時代に作られた長良村絵図を見ると、村は笈瀬川(東)と中井筋(西)に挟まれてあり、まさに川の流れているところだった。

 露橋(中川区)について江戸後期に作られた『尾張国地名考』は「凡(およそ)地名に露・霜・雨・雪のたぐひは稀(まれ)なり」と書いている。露橋小学校の『五十周年記念誌』はこの由来を、橋のたもとに一輪のツユクサが咲いていたことに起因する、とする。しかし、ツユクサはかつてはどこにでも見られたもので、ただそれだけでは地名になりにくいのではないか。

 やはりこれも地形から来ていると考えるべきだろう。「露」は古語の「つぶれる」「なくなる」意の「潰(つ)ゆ」で、それに場所を示す「場」が付いてできたと見たい。本来「ツユバ」と言われていたものに、「シ」を付けて「露橋」の字が当てられたものと思われる。

 ここは笈瀬川と江川(現在の市道江川線)・堀川に挟まれた低地である。しかも、平行するように北から南へ流れる三本の川はかつての露橋村で東西の水路(現在は運河)によって結ばれていた。一帯はちょっとした出水でも浸水し、水没してしまうような土地だったはずである。

 余談ながら、瑞穂区の牛巻や守山区の牛牧も「ウシマ」に「キ」を付けて「牛巻」「牛牧」になったものだ。「ウシ」は「失う」の「ウシ」で、これまた「なくなる」とか「見えなくなる」の意。「マ」は「場」のなまったもので、両者とも低地で共通している。

 庄内川近くの栄生(中村区、西区)は本来「サコ」―「砂処」「砂子」などだったであろうが、めでたい「栄(さこ)」の字が当てられた。いまは「栄生」と書くようになっている(江戸時代は「栄村」だった)。その栄村の前(南)にあったのが佐古前(中村区)であり、栄村の支村が栄出(八坂町になり現在は西区名西)である。

 地形から説明できる地名を挙げていると切りがなくなってくる。次は歴史が地名を生むというケースを拾ってみよう。これもまた多い。

 

秀吉・利家、地名でも大活躍

 中村、中川は中世、鎌倉街道が横切っていた。中でも萱津は大きな宿場で、対岸のこちらまでにぎわった。そうした縁から後世、宿跡町や東宿町(いずれも中村区)が生まれている。

 古渡には源為朝が潜伏したという伝説があり、その子が尾頭義次と言われてきた。彼は元興寺(中区正木四)を再興したりもするが、その名字にちなんでできたのが尾頭橋や尾頭橋通(いずれも中川区)だ。彼はやがて鬼頭を名乗るようになり、この地方で多い鬼頭姓のルーツとなった。

 この他、中郷(ちゅうごう、中川区)は伊勢神宮の荘園「一楊御厨(いちやなぎのみくりや)」の「厨郷」から生まれたもので、一般的に見られる「なかごう」「なかのごう」などとは異なっている。かつての中村、西区にかけてあった志摩町(現在は中村区名駅)は尾張藩の重臣竹腰志摩守の下屋敷があったことに由来する。太閤や太閤通・千成通・豊国通あるいは橋名の豊公橋(いずれも中村区)などが秀吉から来ていることはだれもが知るところである。

 平成の大合併で新しい名称をどうするかでもめるケースも多い。明治期にも大合併が推し進められ、上中村・下中村・稲葉地(いずれも中村区)は織豊村(おりとよむら)となった。稲葉地には織田氏の一族である津田豊後守のいた稲葉地城があり(神明社の地がそれで、一帯は城屋敷と言われている)、織田と豊臣の一字ずつを取ることでスムーズに決まった。

 これとは逆だったのが前田利家の生まれたとされる前田村である。前田・助光・長須賀・伏屋・万場(いずれも中川区)の五カ村が合併して万須田村に落ち着いた。加賀百万石の祖となった利家も、天下を取った信長・秀吉ほどの威光はなかったということか。速念寺にある「旧前田村碑」は由緒ある前田の地名が消えるのを惜しんで建てられたものである。

 この前田は利家の先祖が岐阜県・神戸町の前田から来て地名になったようだ。隣接の伏屋(中川区)も岐南町の伏屋から来た人によって開拓されたことによる(『尾張国地名考』は旅人を救う「布施屋」から来たとしているが疑わしい)。当時、伏屋には伏屋城があり、伏屋氏が居城していた。

 前田へ進出した前田氏はやがて水運などに恵まれた下之一色(中川区)へ進出、利家の先祖に当たる分家は荒子(中川区)へ出た。下之一色の「一色」は「一色田」(一種類の年貢だけを出す田んぼ)の「一色」で、ここの場合はおそらく海産物だったのだろう。「下」の由来について同書は「北一色(現在の中川、中村区の一部)に対していふなるべし」としている。

 一方、分家の進出した荒子は「荒処」で、未開地だったところを指す。「アライ」(新居・新井など)「アラキ」(荒木・荒城など)「アラタ」(荒田・改田など)の「アラ」も開墾してできた土地を意味することが多い。隣接する的場(中川区)は荒子城の矢場が置かれていたことによる。

 東起(中川区)は分家の前田家が本家の下之一色の東側を開墾した(起こした)ことから名付けられたものだ。東起村絵図を見ると「字荒子起」「字万町起」などの小字名が記されているが、これは荒子城の支配下にあった村人らによって開拓されたことを物語っている。主導権争いに明け暮れした織田家とは違い、新興の前田ファミリーは団結するしかなかった。

 先ほど名駅が出たが、これはなかなかユニークな町名だ。東駅(東京)、大駅(大阪)などとは言われない。名古屋駅の略称として用いられていたものが正式に町名になっためずらしいケースと言えよう。

 その名駅にはかつて堀内町という町名があった。これは住人の一人だった堀内金兵衛という人が開拓に尽力したことによる。後に名古屋駅が笹島から移転してきて、堀内家は何棟ものビルを建てるまでになってゆく。

 町名は生まれたときから変わったり、消えたりする宿命にある。その例を大蟷螂(中川区)で見ると、「蟷螂」の字が難しいとして新町名では「当郎」の字が当てられた。『尾張国地名考』はこの由来について、ここに熱田神宮に仕える大工の棟梁が住んでいたとしているが、この説は神宮から離れすぎていて信じがたい。

 「蟷螂」は素直にカマキリと解釈すべきだろう。すなわち、草深い庄内川脇の地を開墾してできたところであり、草を刈る様がカマキリの鎌を振るうのにたとえられたと見たい。少なくとも偉い棟梁がわざわざここに住むような場所ではなかったはずである。

 「当郎」では意味が分からなくなるからと、人の住まない堤防内側に「大蟷螂」の名が残されている。変更したことに対する、せめてもの罪滅ぼしか。こうしたケースはしばしば見られ、新町名になった下流の小碓や当知(ともに港区)でも川側に旧「小碓町」「当知町」が“保存”されている。

 こうして書き出すと紙面がいくらあっても足りない。近く『名古屋の地名とその由来』を出す予定でいる。ご期待下さい。

 

 

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