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立川流彫刻師、野村作十郎を探せ!

めざすはカリスマ店員!

 

●幕末の彫り師 野村作十郎をご存じですか?

名古屋で発行されている「中部経済新聞」に2014年(平成26年)の半年間、「天空の龍 幻の名匠 野村作十郎」と題して連載させてもらった。作十郎は幕末期に出た立川流の彫刻師だが、その名前はほとんど知られていない。いまに残された作品や史料などを探し求め、その実像に迫ったルポルタージュである。

先ごろ、連載後の追跡取材なども含めて同じ題名『天空の龍 幻の名匠 野村作十郎』を上下2冊にして出版することができた。ここでは「プロローグ」と「エピローグ」にまとめた一部、信州は小布施、岩松院本堂の天井絵「八方睨み鳳凰図」について、筆者なりの問題提起と解答・結論を書き留めておく。お読みいただけたら幸いである。

【参考】◆中部経済新聞についてはここを。

“葛飾北斎の町”北信州の小布施からの出発

浮世絵師、葛飾北斎で町おこしに成功した、北信濃の小布施町。町には美術館「北斎館」があり、観光客の人気を呼んでいる。初めはどうして江戸から遠く離れた小布施に……と思ったが、北斎は晩年になってこの町を四度も訪れているというのだ。

北斎は90歳まで生きた、当時としてはまれに見る長寿だった。また、引っ越し好きでも知られ、一説にその数は93回に及んだとも。年老いて四回も来ていたという元気さには驚くほかない。

小布施と聞いて気になるのは、郷土の戦国武将福島正則である。正則は元和5年(1619)、49万8000石の広島城主を“解雇”され、その10分の1にも満たないこの地に流されてきた。5年後には小布施の岩松院(曹洞宗)で永眠することになるが、この寺の本堂にも北斎の天井絵がある。

その天井絵は「八方睨(にら)み鳳凰図」と言われ、四度目に訪れた北斎最晩年の作とされている。実は、以前からこれに疑問を持つ人も一部にはおり、そうした面からも興味を引かれた。90歳にもなろうとする“画老”老人がたとえ周りの協力を得たとしても、本堂の天井を飾るほどの大作を描けるのか。それよりも前に、遠路はるばる小布施まで来ることができたのか。

小布施へは10年ほど前、一度行ったことがある。バス旅行の途中に立ち寄ったもので、滞在時間はわずか1時間ほどだった。あのときは北斎館などを見て町の中を散策した程度で、雰囲気を味わうだけのものでしかなかった。

もちろん、町はずれにある岩松院へは寄よらずじまい。正則の菩提寺で興味はあったが、団体旅行とあっては思い通りにならない。車中でバスガイドさんが「天井絵は北斎一代の傑作」と盛んに“宣伝”していたものだ。

様々な興味や疑問を持って、昨年5月の連休に小布施を訪ねた。長野市内の雑踏を通り抜け、千曲川に架かる小布施橋を渡る。渡り切った一帯が一面に広がる菜の花畑だった。

その河川敷は「黄金島(こがねじま)」と呼ばれているそうで、周りでは桜の花も満開だった。木々の緑がそれらを一層鮮やかに引き立てている。橋と結ばれたロープにはたくさんの鯉のぼりが気持ちよさそうに泳ぎ、訪れた多くの行楽客でにぎわっていた。

菜の花が広がる千曲川の河川敷
菜の花が広がる千曲川の河川敷

町の中心部に入ると、いくつもある駐車場は満杯に近い状態だった。マイカーが出入りし、観光バスも多い。町の中は訪れた人で大にぎわいである。

北斎館の周辺には飲食店や土産物店などが建ち並ぶ。やや離れたところで建築中の建物も、やがては同様のものになるのだろうか。連休中とあってか10年前に来たときより、はるかににぎわっている。

2階建ての北斎館には全館を通し、多くの作品が展示されていた。目玉とも言えるのは広いスペースを使い、2基の豪華な祭り屋台を並べた第四展示室。同町東町地区のものと上町地区のものである。

入口側に置かれていた東町の天井絵を見て、「あっ!」と声を上げそうになった。極彩色の羽根を広げた鳳凰が円形状に描かれており、本などで見てきた岩松院の「八方睨(にら)み鳳凰図」とそっくりである。屋台の天井は二分され、もう一方は中央に龍を描き、その周囲をこれまた北斎が「富嶽三十六景」(神奈川図)などで見せた独特の波頭で飾られていた。

これは明らかに北斎の作品である。前回訪ねたときにも見ているが、この「鳳凰図」や「龍図」は全然記憶になかった。屋台全体に目を奪われ、しっかり見ていなかったのだろう。

もう一基、上町の屋台の天井絵は波を素材にした「男浪図」と「女浪図」の組み合わせ。群青色を基調にして渦巻く波と、はじける波頭が大胆に描かれている。これはもう疑うまでもなく北斎ならではのものだ。

今回は吸い込まれるように天井絵を眺め回した。どう見ても北斎が描いたとしか思えない。小布施へ来て村民らとも親しく交わり、祭り屋台にまで絵筆を執っていたのか

映像展示室で見た15分ほどの映画「小布施の北斎」もすばらしい出来栄えだった。収蔵している作品などを紹介しながら、“画狂”と言われた北斎の絵にかける執念を浮き彫りにしていた。小布施は北斎を暖かく迎え入れた町であり、北斎といかにゆかりが深いかを語りかけてくる。

この美術館は地元に残されていた作品の散逸を恐れ、また、その画業を広く伝えようと、昭和51年(1976)に建てられたものだ。館内には北斎研究所も併設され、継続的に『研究紀要』を出すなど、小布施の北斎究明に余念がない。なかなか見応えのある美術館で、小布施観光の中核的施設となっていた。

【参考】◆北斎館についてはホームページを。

北斎館と道一つ隔てて高井鴻山(こうざん)記念館がある。高井家は豪商にして豪農、酒造業でも富を築き上げてきた。記念館のある地がその屋敷跡だが、明治になって火災に遭い、いまに残るのはごく一部でしかない。

鴻山は文化3年(1806)高井家十代熊太郎の四男として生まれ、15歳から31歳になるまで京都や江戸に“遊学”した。いまでは考えられないような優雅な暮らしぶりだが、この間に儒学や国学、和歌、漢詩、絵画、その他あらゆる分野にわたって学んだ異色の文化人である。35歳のとき父熊太郎が死に、3人の兄もすでになく、家業を継ぐことになった。

天保13年(1842)37歳の秋、かねて交遊のあった北斎が小布施の鴻山宅を訪ねてきた。その理由には諸説あるようだが、幕府の「天保の改革」による厳しい取り締まりにより、北斎がよき理解者だった鴻山を頼ってきたものと見られている。このとき北斎、八十三歳であった。

鴻山は屋敷内にアトリエ「碧□軒(へきいけん)」を建ててもてなし、自らも弟子となって腕に磨きをかけた。鴻山は北斎を師と仰いで「先生」と呼び、北斎もまた鴻山に感謝して「旦那様」と言った。このときの滞在は1年余にも及んでいる。

かつての建物が記念館とされ、鴻山ゆかりの絵画や書、遺品、各種資料などが展示されていた。そうした中で特に注目したのは、二カ所に掲げられていた鴻山が交流していた人たちとの「人間関係図」である。そこには北斎をはじめ佐久間象山、梁川星巌(せいがん)、谷文晁(ぶんちょう)、佐藤一斎、大塩平八郎など、当時のそうそうたる人物の名前がぎっしりと書き込まれていた。

この中に野村作十郎はいないかと、一人一人を確かめるようにして探した。しかし、どこにも見当たらなかった。これらはその名を知られた当代一流の人たちばかりであり、無名の職人などは出ていないのも当然のことなのかもしれない。

帰りがけに居合わせた係の人に尋ねてみた。初めて耳にしたという様子で「野村作十郎? いや、聞いたこともありません」とそっけなかった。売店に置かれていたこれは!?と思う本を4冊買い求めたが、この中にせめて名前くらい出てくるといいのだが……。

【参考】◆高井鴻山に関する詳しいことはこちらを。

岩松院は中心部から二キロほど東、雁田山のふもとにあった。背後の山が印象的である。本堂の天井絵「八方睨み鳳凰図」に魅せられ、こちらの方にもかなりの観光客が来ていた。

やはり本物の持つ迫力は違う。本やネットなどで幾度となく見てきたが、そのスケールに圧倒された。大きさは間口6.3メートル・奥行き5.5メートル、畳にして21畳分にも匹敵すると言い、色も160年以上たっているとは思えないほどの鮮やかさである。

89歳になる北斎は小布施を四度目に訪れ、一年以上もかけてこれを描いたという。北斎は嘉永2年(1849)に亡くなっており、まさに死ぬ直前の傑作と言える。しかも、現存するものの中では最大の作品である。

ちなみに、北斎は文化14年(1817)58歳のとき、名古屋の西別院で大達磨を描いている。これは「小さなものしか描けない」と言われているのを人づてに聞き、「ならば大きいものを」と発憤、長さ18.0メートル・幅約10.8メートル、約120畳ほどの厚紙に特製の大筆で描いて見せた。公開で行われた一大イベントだったが、このときの絵はいまに残されていない。

天井絵の下には観賞用のイスが多く並べられていた。ここに座って見上げているより、人の出入りさえなければ、寝転がって見渡してみたいほどだ。鳳凰の鋭い目をじっと見ていると、逆にこちらがにらまれているようにも思えてくる。

北斎館にあった祭り屋台の「鳳凰図」を見たとき、こちらも北斎が描いたに違いないと思った。しかし、こうして「八方睨み鳳凰図」を眺めていると、この作者が向こうの絵を描いている、と思えてきた。屋台はよく修理されるし、それに付随する彫刻や絵画、幕なども取り換えられたり、時にはどこかのものを再利用したりすることもある。

東町の屋台にある二つの天井絵は作者が同じではない。どちらが先に作られたかは分かりかねるが、いまある二つは後から組み合わされたものではないのか。屋台の「鳳凰図」は北斎のタッチとは違うようにも思えてくる。

90歳になろうという老人が果たして江戸からここまで来られるだろうか。北斎館でもこちらの天井絵を紹介するのは差し控えているようにも見受けられた。向こうで納得したはずだったのに、かえって新たな疑問が頭をもたげてくるのだった。

【参考】◆天井絵などについては小布施町公式ホームページを。

岩松院の天井絵の作者をめぐり、疑問や論争がなかったわけではない。代表的なのは東京教育大学の由良哲次名誉教授が現地調査をしたうえ、北斎の直筆に間違いないと断定した。昭和49年に出されたこの説は大きな話題を呼び、渦中の小布施は北斎で沸き返った。

同51年に北斎館ができたのも、こうした中でのことである。これまでにない大作に北斎のお墨付きをもらい、町おこしに一段と拍車がかかることになった。以降、小布施は北斎の町として全国的に知られるようになってゆく。

一方、これに疑問を投げかける人も出てきた。その一人、美術評論家の瀬木慎一氏は北斎が四度も来たとするのは誇張であり、作者は弟子の葛飾為斎(いさい)だと主張した。また、以前には北斎が下絵を書き、弟子の鴻山が仕上げたとの説も有力だった。

筆者は北斎による町おこしに水を差すつもりは毛頭ない。それどころか埋もれた歴史を掘り起こすことこそ、その町や地域ならではのオリジナリティの発見だと思っている。小布施はその成功例と言える。

しかし、もう一方では真実を知りたい。この天井絵は本当に北斎の手になるものなのか。もしそうでなかったとしても美術的価値は下がるものではなく、いま一度見直されてもよかろう。

では、だれがこれを描いたのか。「北斎以外にできる絵師はいない」「高齢の北斎が本当にここまで来られたのか」。問われると支持派も否定派も、決め手となる証拠を出すのに窮している。これほどのものを描ける作者なら、どこか他にも似た作品が残されていてもよさそうだが、それらしいものも提示されていない。

見物人でにぎわう中、複雑な思いで見つめ直した。筆者はこれまで名前すら出されたこともない、彫り師であり絵もよくした野村作十郎だとにらんでいる。彼はそれに似たタッチの絵を岡崎市内の寺院にも残している。

しかし、これを主張するには作十郎が小布施に来ていたこと、古文書をはじめとする証拠を発掘することが必要になってくる。いまはそれらを追い求めているさなかである。

見学者たちは天井絵を見終わると、正則の霊廟には足を向けることもなく、満足した表情で帰っていく。寺側も天井絵と北斎には雄弁だったが、正則についてはあまり多くを語ろうとしなかった。流されてきた哀れな武将とあっては、観光の売り物にならないのだろうか。

この日の夜は小布施町に隣接する高山村の山田温泉に泊まった。山あいにいくつもの温泉が湧き出し、まとめて「高山温泉郷」と呼ばれている。思わぬ秘湯に浸れ、うれしくなってきた。

元和5年(1619)、広島城主だった福島正則は勝手に城を改修したとの理由で、転封(てんぽう)させられることになった。家康以来の親豊臣派追放の一環だった。正則は剃髪して供の者わずか30数人とともに、須坂からここ高山村へ流されてきた。

村の開けた中心部、堀之内がその陣屋とされたところ。訪ねてみると火の見櫓が建つだけの小さな空き地で、もし「長野県史跡 福島正則屋敷跡」の標柱がなければ、気付かなかったほど。この5年後、寛永元年(1624)に64歳で亡くなるが、どのような思いで暮らしていたのだろうか。

「ほう……名古屋からとは、ご苦労なこって。そりゃ村民思いのいい殿様でやしたよ。村を流れる松川や本流の千曲川の氾濫から村々を守ろうと、1000両ものお金をかけて堤防を造ってくれやした。いまも〃千両堤〃と呼ばれていやす」

通りかかったお年寄りの話に、ほっとさせられた。広島当時の10分の1にも満たなかったが、正則はここでも懸命に生きていたのだ。それまでの土地の評価方法も見直し、収穫量に見合った適正な年貢に改めたとも言う。

近くの田んぼの中には「荼毘(だび)の地」もあった。領民らがその遺徳をしのんで植えたという一本杉は高さが30メートルにもなり、昭和9年の室戸台風で倒れるまであったとか。ここからは北アルプスや戸隠など北信の山々がきれいに望めたが、正則もこうした風景を楽めたのだろうか。

正則の死因はベールに包まれたまま、火葬に付されている。訪れた検死役は残された骨壺の中をのぞき込むだけとなった。幕府は家老の津田四郎兵衛の措置を責め、正則の庶子にわずか3000石の捨て扶持を与えるだけとなった。

菩提寺を新たに建てることも許されず、小布施の岩松院がそれに当てられた。同寺はまた高井家の菩提寺でもある。寺に天井絵が描かれたのも、この地方を代表する格別の寺であったからか。

嘉永2年(1849)、北斎が江戸の浅草で亡くなった。このとき高井鴻山45歳、野村作十郎35歳。小布施からさほど遠くもないところで、社殿を飾る彫刻にノミを握る作十郎の姿があった。

福島正則が荼毘に付された地
福島正則が荼毘に付された地

 

 

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