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愛知県御津町

自然と歴史の息づく近郊農村 朝一番の「のぞみ」も出会う町


町のシンボル・御津山
見応え十分、桜と夜景

 まことに恥ずかしい話だが、愛知県に御津町という自治体があるとは知らなかった。「御津」を「みと」と読むことさえできなかった。岐阜県や三重県ならまだしも、足元の愛知県にまだ知らない自治体があったとは、少なからぬショックだった。

 地図を開くと小坂井町や音羽町などに接してある。町内を東海道本線が通り「愛知御津」駅もある。新幹線もこれと平行するように走っているが、役場から取り寄せたパンフレットを見ると、東京と新大阪を出た朝一番の「のぞみ」のすれ違う地点がこの町なのだそうな。

 町へ入ったと思ったら、深めの皿を伏せたような、美しい形の山が見えてきた。その名を御津山と言い、標高94、4メートルの小山。頂上がやけに平ぺったく見えたのは、戦時中に削り取って砲台が設けられたせいだった。

 頂上からの眺めが素晴らしかった。三河湾や渥美半島が手に取るように見え、埋め立ての進んだ海岸部は工業地帯となりつつある。目を左の方に移すと、音羽川の向こうに豊橋の市街地が広がっていた。

 山頂の広場には桜の木も多い。根尾村(岐阜県)の名木「薄墨桜」も移植されていた。毎年4月1日から15日まではここを舞台に「桜まつり」が開催され、ハイキングを兼ねて訪れる人たちでにぎわいを見せるとか。

 この日は豊川市国府の弘法山にある「サンシティ豊川」に泊まることにした。自治体こそ異なるが、御津山とは目と鼻の先。宿から眺める夜景がこれまた美しく、夏場の御津山も格好のデートスポットとなっているにちがいない。

 

歴史に彩られた二つの寺
山麓の大恩寺と法住寺

 山の北麓にあった古刹が御津山大恩寺という浄土宗の寺。山頂からの眺めを楽しんだ後、さっそく参拝することにした。県の重文に指定された唐様の山門がひときわ偉容を誇っている。

 この寺の歴史は古く、飛鳥時代にまでさかのぼるとか。文明年間(1469−1487)に松平氏4代忠親(岡崎城主)が大檀那となって現在地に移し替えた。こうしたことから代々松平氏とのゆかりが深く、家康の父広忠は「松平家に大恩のある寺」として現在の山寺号に改めている。

 由緒ある寺だけに国指定の重文、王宮曼陀羅図をはじめ、宝物類も多い。大恩寺文書と呼ばれる一連の古文書はこの地域の歴史を物語る史料として貴重な存在だとか。参拝を終えた帰り、山門脇の日だまりで見かけたかれんな梅の花が早春の香りをほのかに漂わせていた。

 国府に近くて古い歴史があるからか、この町ではお寺や神社をよく見かける。中でも大恩寺の前にあった古社は式内社にもされた御津神社。そして西麓へ回ったところにあったのが呑海山法住寺という、これまた歴史に彩られた曹洞宗のお寺だった。

 格式を誇った大恩寺とは対照的に、こちらは庶民的な雰囲気に包まれている。本堂前にずらりと並んだ石仏は、それぞれ八十八カ所巡りの札所となっていた。85番で花を供えていた中年の女性は「もとは裏山にありました。それぞれにお守りする人が決まっているんですよ」と教えて下さった。

 別院に祭られていた千手観音は平安末期の秀作で、これまた国の重文に指定されている。もとは宇治山田(三重県)の寺にあったものだそうだが、明治の廃仏毀釈のとき、海中に投棄されようとしていたのを地元の船乗りがもらい受けてきたとか。「毎月17日は観音様の命日でね、参拝者で大にぎわいですよ。境内には露店もいっぱい並ぶ。そのときにもういっぺん来ていただかないと」と彼女から再度の訪問をすすめられてしまった。

 

今川、松平両氏争奪の地
幸せか、佐脇城最後の城主

 朝一番の「のぞみ」が出会うかのように、戦国時代、西進する今川氏とこれに対抗する松平氏とがこの町でぶつかり合うことになった。海岸寄りに攻め寄せてくる敵の押さえとして、あるいはまた進出の拠点として、どちらにとってもほしいところ。下佐脇地区にある佐脇城跡は取ったり取られたりした、そんな戦いの歴史をしのばせてくれる。

 工場内の一角に「史蹟 佐脇城趾」と彫られた石碑が建てられていた。その周りには古木が生い茂り、そばに小祠も祭られていた。残念ながら城の遺構らしいものは見当たらなかったが、一本の石碑が訪れた人に何かを語りかけているかのようにも思えてくる。

 近くに最後の城主となった佐脇刀祢太夫(とねだゆう)の墓もあるらしい。歩き回ったがなかなかそれらしいものが見当たらない。道で出会った若者に尋ねるとわざわざ家まで案内し、町内の地図を持ち出してきて調べてくれた。が、それでも分からないとなると、今度はどこかへ電話までしだした。

@「ああ、行者堂の横の……なーんだ、あれがそうか」

 彼は気付かないでいたが、相手の人はちゃんと知っていた。それにしても、ありがたい。名所や史跡を訪ねるのは旅の楽しみの一つだが、それ以上にこうした親切に出会うと、旅はいよいよ楽しくなってくる。

 役行者(えんのぎょうじゃ)を祭る行者堂はその家から歩いて100メートルほどのところにあった。お堂の横に置かれた、ずんぐりとした大きな五輪塔。解説板には「天正3年(1575)長篠の役で討死」とあり、いまも地元の人たちの手により「五輪様のお祭り」が行われているとか。

 刀祢太夫は家康やその有力家臣たちのように、歴史に名を残すことはできなかった。しかし、400年以上たったいまも、地元の人々の心の中に生き続けている。いい人といい話に巡り合えて、何だかうれしくなってきた。

 

新名所、ミニ日本列島
音羽川の河口を歩く

 「引馬野(ひくまの)」はてっきり浜松の古名だと思っていた。が、これは歌人でもあった賀茂真淵が『万葉考』で主張しだしてからのものだそうで、本当はこちらだったのかも。町内の御馬地区には「引馬野」という地名が残り、引馬神社もある(もっとも神社は明治元年にこの名に改められている)。

 音羽川の河口に位置するここは、また『万葉集』に歌われた「安礼(あれ)の崎」だったとも言われている。埋め立てでできた一角には「日本列島」と名付けられた臨海緑地が造られ、その入口に高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が『万葉集』で歌った「何処(いづく)にか船泊(ふなは)てすらむ安礼の崎漕(こ)ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟」の歌碑があった(原文は万葉仮名)。


海辺にできた新名所「ミニ日本列島」
海辺にできた新名所「ミニ日本列島」

 初めは「日本列島」に首をかしげたが、広大な庭園を散策していたら分かってきた。園内は九州から北海道までの地形で形成され、それぞれの地にゆかりの植物や歌碑などもあしらわれている。法住寺ではあっという間に八十八カ所の霊場巡りができたが、ここでは美しい砂浜を歩いたり富士山に登ったりしながら、日本一周を楽しめる仕掛けになっていた。

 河口の対岸側に行くと、小さな漁港に「御馬湊」の解説板が建てられていた。江戸時代に幕府へ納める米をここから積み出していたとのこと。寛永12年(1635)、三河の5カ所に設けられた積み出し港の一つとされ、この湊へは新城や津具方面からも馬などで年貢米が運び込まれてきたという。

 解説板には120メートルほどの道路があって代官の検査を受けたこと、集まった多くの駄馬は引馬神社の林に繋がれていたこと、なども記されている。しかし、いまは当時をしのぶようなものは何も残されていない。山と積まれた米俵、忙しそうに動き回る人々や馬のいななきなど、活気に満ちた湊の様子は漁港の風景にダブらせて頭の中で空想してみるしかなかった。

 「なかなか面白い町でしたね」  「これで県下の自治体名は全部分かったよ」

 同行の友人と帰路に着くことにした。初めて知った御津町ではあったが、この2日間の旅でいろいろなものを見ることができた。豊橋や豊川、蒲郡などの大都市に囲まれて見落とされがちなだが、歴史や自然を大切に守りながら、臨海部の開発にも夢をかける元気な町との好印象を持った。

 

[情報]御津町役場
〒441−0312愛知県宝飯郡御津町大字西方字日暮30
TEL0533−76−4707

 

 

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