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愛知県小原村

古刹もあった、城跡もあった 和紙で知られる小原村を訪ねてみれば


大作ずらり、作品の展示館
まずは「和紙のふるさと」へ

 小原村と言わ れて真っ先に浮かぶのは和紙だ。普通の和紙ならかつてはそれほどめずらしくもなかろうが、ここを有名にしているのは美術品にまで高められた工芸和紙。村には20人ほどの作家が住み、和紙ならではの優れた作品を生み出している。

 まず最初に訪れたのは、村の中心部にある「和紙のふるさと」。森の中に遊歩道や広場などがあり、自然の中でゆったり遊ぶことができる。原料となるコウゾやミツマタも、話には聞いていたが、ここで初めて目にすることができた。

 園内にある和紙展示館の1階には和紙で作った様々な製品が並べられていた。全国の和紙の産地やその歴史、製造工程などを紹介するコーナーもある。2階へ行くと工芸和紙の生みの親で美術工芸家だった藤井達吉翁と、村で活躍中の作家らの作品が展示されていた。

 この村では古くから和紙の生産が盛んだったが、ご多分にもれず、昭和にはいって衰退の一途をたどっていた。それを見事よみがえらせたのが、碧南市出身で大戦中に村へ疎開してきた達吉翁だった。現在作られている襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)、掛け軸、色紙などの技法はその指導によって村人たちに教えられたものだ。

 展示館に隣接して実際に体験できる和紙工芸館があった。中をのぞいてみると、若い女性や親子連れなどでなかなかのにぎわいぶり。先生の指導ですいたばかりの和紙に字や絵を書いたり落ち葉をあしらうなど、それぞれが思い思いに力作に挑戦していた。

 園内の一角に設けられた売店には和紙でできた小物類がいっぱい置かれていた。3人連れの婦人が「和紙はいいわね、ぬくもりが感じられて」などとはしゃぎながら、なにやかやと買い込んでいる。ついついこちらもつられて、紙製のネクタイを買うことになってしまった。

 

2度楽しめる「四季桜」
ナンテンだって名物になる?

 冒頭で「真っ先に浮かぶ」と書いたが、正直に言うと、出てきたのは和紙しかなかった。2番目が出てこなくて困ったものだが、来村して桜があることを教えられた。なるほど、そう言われてみれば、やたらと目につく。

 村ではいま、この桜を観光の目玉にしようと懸命の様子。桜は桜でも「四季桜」と言い、4月と10月から12月にかけて2度、美しい花を咲かせてくれるそうだ。春に咲くのは当たり前としても、紅葉をバックに咲く桜は想像してみただけでも楽しい。

 そんなめずらしい木は江戸時代の後期、一人の医者によって村へ持ち込まれた。その苗木がもととなってあちこちに広がり、いまでは「村の木」として植樹が奨励されている。先ほどに訪れた「和紙のふるさと」にも沢山植えられており、シーズン中は桜に人気を奪われてしまうほどらしい。

 前洞地区には樹齢100年を越すと推定される古木もあった。人里からやや離れた山あいの地に、風雪にたえながら悠然と立っていた。これがいまでは一番古いものとされ、愛知県の天然記念物に指定されている。


村中で出会ったナンテンの実った風景/愛知県小原村
村中で出会ったナンテンの実った風景

 しかし、訪れたいまは花見のシーズンではない。もっぱら目を楽しませてくれたのは、村の至る所で見られたナンテンの赤い実だった。村にはそれが本当に沢山あった。

 冬場は桜よりもこのナンテンの方が名物と呼ぶにふさわしい。村で出会ったお年寄りに「どうしてこんなに多いのか」と尋ねたら、「この村ではめでたい木として植えとるようだな」「今年は鳥も食わなかったからよけい目立つよ」とのことだった。このナンテンを「和紙のふるさと」をはじめとする観光客の来そうなところに植えたら、殺風景ないまどきにはもっと喜ばれるのではないか。

 

観音寺と薬師寺と
2つの古刹を訪ねる

 小原村には意外と思えるほどお寺も多かった。道慈山観音寺では2月だというのに、桜の若木が弱々しげながらも小さな花を咲かせていた。「四季」と言うからには、いまごろ咲くのもあるということか。

 ここの寺は1000年以上も前に創建されたと言われ、古色蒼然とした雰囲気に包まれていた。どっしりとした山門があり、その中には古びた仁王像が安置されていた。脇の解説板を見ると「本尊(秘仏)は弘法大師御自作の観世音菩薩像」とあったが、それほど古い歴史と由緒のある寺ということか。

 境内はだだっ広く、山門と本堂との距離は優に100メートルほどもある。後で聞いて知ったのだが、かつてはここが馬場として使われており、秋祭りには飾り馬などでごった返したとか。そう言われて思い出したのは、隙間もないほど馬の絵で埋め尽くした、山門に掲げられていた巨大な「千頭絵馬」だった。

 国道419号脇にある瑠璃光山薬師寺もまた見応えがあった。観音寺と同じく真言宗の古刹だったが、ここの本堂は周りを見事な彫刻で飾り立てられていた。しきりに感心していると、家の中からご住職が出てこられた。

 「実は父が住職をしていましたけど、いまは観音寺さんと同じように無住なんです。私が勤めのかたわらお守りをしているような状態でしてね。ここの本堂や庫裏、鐘楼門などは幕末から明治にかけて建てられたもですが、立派すぎてちょっとした補修をするにも費用がかかって大変なんです」

 いろいろ解説して下さったあと、ふとこんな言葉を口にされた。先ほどの寺は人影すら見かけなかったが、どうやって維持されているのだろうか。お話を聞いていたら、お賽銭を奮発する気持ちになってきた。

 

苔むす石垣に思わず歓声
山城に戦国時代をしのぶ

 「おお、これはすごいや」
 思わず声を上げてしまった。まさに林を抜けようとしたとき、眼前に飛び込んできたのは苔むした古城の石垣だった。城主の供養塔を見、空堀の跡をこの目で確認しながら城跡を探索していたとき、突然、目の前に野面積みの石垣が現れた。

 かたわらに解説板があった。それによにと、この石垣の上には櫓が建てられていた、とある。自然の地形を利用して造ることが多い山城で、このような石垣が残されているのはめずらしい。

 ここは戦国時代に築かれた市場城の跡。想像してきた以上に、遺構がよく残されている。さらに進むと二之丸の跡があり、そこに咲く可憐な梅の花が印象的だった。

 頂上の本丸跡には「市場城址」と彫られた石碑がぽつんとあった。いまの城は文亀2年(1502)、一帯を支配していた鱸(すずき)藤五郎親信によって築かれ、4代88年間、鱸氏が居城していたという。特に4代重愛(しげよし)は家康に仕えて大功を立てたが、後に秀吉に服従することを嫌って改易されてしまったとか。

 本丸跡から裏側へ回ると、竪堀群や帯曲輪(おびくるわ)、枡形門などの跡もあった。「さんざ畑」と呼ばれる曲輪は家老の尾形三左衛門の屋敷のあったところだとか。ここは城好きに一見の価値がある。

 小原村というと和紙のイメージが強いが、見るべきところは他にもいっぱいあった。古刹や古城にも出会えたし、今度は秋の四季桜も見てみたい。村を離れるとき、ふと「和紙だけの里ではなかったよ、なあ」とつぶやいていた。

 

[情報]小原村役場
〒470−0531愛知県西加茂郡小原村大字大草441−1
TEL0565−65−2001

 

 

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