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愛知県小原村 |
古刹もあった、城跡もあった 和紙で知られる小原村を訪ねてみれば
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大作ずらり、作品の展示館
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村中で出会ったナンテンの実った風景 |
しかし、訪れたいまは花見のシーズンではない。もっぱら目を楽しませてくれたのは、村の至る所で見られたナンテンの赤い実だった。村にはそれが本当に沢山あった。
冬場は桜よりもこのナンテンの方が名物と呼ぶにふさわしい。村で出会ったお年寄りに「どうしてこんなに多いのか」と尋ねたら、「この村ではめでたい木として植えとるようだな」「今年は鳥も食わなかったからよけい目立つよ」とのことだった。このナンテンを「和紙のふるさと」をはじめとする観光客の来そうなところに植えたら、殺風景ないまどきにはもっと喜ばれるのではないか。
小原村には意外と思えるほどお寺も多かった。道慈山観音寺では2月だというのに、桜の若木が弱々しげながらも小さな花を咲かせていた。「四季」と言うからには、いまごろ咲くのもあるということか。
ここの寺は1000年以上も前に創建されたと言われ、古色蒼然とした雰囲気に包まれていた。どっしりとした山門があり、その中には古びた仁王像が安置されていた。脇の解説板を見ると「本尊(秘仏)は弘法大師御自作の観世音菩薩像」とあったが、それほど古い歴史と由緒のある寺ということか。
境内はだだっ広く、山門と本堂との距離は優に100メートルほどもある。後で聞いて知ったのだが、かつてはここが馬場として使われており、秋祭りには飾り馬などでごった返したとか。そう言われて思い出したのは、隙間もないほど馬の絵で埋め尽くした、山門に掲げられていた巨大な「千頭絵馬」だった。
国道419号脇にある瑠璃光山薬師寺もまた見応えがあった。観音寺と同じく真言宗の古刹だったが、ここの本堂は周りを見事な彫刻で飾り立てられていた。しきりに感心していると、家の中からご住職が出てこられた。
「実は父が住職をしていましたけど、いまは観音寺さんと同じように無住なんです。私が勤めのかたわらお守りをしているような状態でしてね。ここの本堂や庫裏、鐘楼門などは幕末から明治にかけて建てられたもですが、立派すぎてちょっとした補修をするにも費用がかかって大変なんです」
いろいろ解説して下さったあと、ふとこんな言葉を口にされた。先ほどの寺は人影すら見かけなかったが、どうやって維持されているのだろうか。お話を聞いていたら、お賽銭を奮発する気持ちになってきた。
「おお、これはすごいや」
思わず声を上げてしまった。まさに林を抜けようとしたとき、眼前に飛び込んできたのは苔むした古城の石垣だった。城主の供養塔を見、空堀の跡をこの目で確認しながら城跡を探索していたとき、突然、目の前に野面積みの石垣が現れた。
かたわらに解説板があった。それによにと、この石垣の上には櫓が建てられていた、とある。自然の地形を利用して造ることが多い山城で、このような石垣が残されているのはめずらしい。
ここは戦国時代に築かれた市場城の跡。想像してきた以上に、遺構がよく残されている。さらに進むと二之丸の跡があり、そこに咲く可憐な梅の花が印象的だった。
頂上の本丸跡には「市場城址」と彫られた石碑がぽつんとあった。いまの城は文亀2年(1502)、一帯を支配していた鱸(すずき)藤五郎親信によって築かれ、4代88年間、鱸氏が居城していたという。特に4代重愛(しげよし)は家康に仕えて大功を立てたが、後に秀吉に服従することを嫌って改易されてしまったとか。
本丸跡から裏側へ回ると、竪堀群や帯曲輪(おびくるわ)、枡形門などの跡もあった。「さんざ畑」と呼ばれる曲輪は家老の尾形三左衛門の屋敷のあったところだとか。ここは城好きに一見の価値がある。
小原村というと和紙のイメージが強いが、見るべきところは他にもいっぱいあった。古刹や古城にも出会えたし、今度は秋の四季桜も見てみたい。村を離れるとき、ふと「和紙だけの里ではなかったよ、なあ」とつぶやいていた。
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