歴史資料館は鉄砲博物館? 壮絶、戦死者1万6000人
「よくもまあ、集めたもんだな。これだけの数を」
「ほんとね。これなんかも鉄砲? 大砲のように大きいじゃない」
新城市の人気施設、設楽原歴史資料館。確かに驚くほど多くの火縄銃が展示されていた。先ほどから先客の老夫婦は感心しきりの様子だが、鉄砲をこれほど沢山並べている資料館もあまりなかろう。
武田軍と徳川・織田連合軍との合戦は一般に「長篠の戦い」の名で親しまれてきた。戦場となった設楽原は長篠城の近くにありながら、行政単位が違うこともあってか影の薄い存在だった。しかし、資料館の開設で不利な形勢を一挙に挽回しようとの意気込みが感じられる。
合戦のコーナーでは長篠・設楽原の戦いの様子が遺品や古文書、あるいは写真などをもとに解説されていた。天正3年(1575)、長篠城は武田勝頼1万5000の大軍に包囲されるが、鳥居強右衛門(すねえもん)が密かに城を抜け出して家康に救援を求めた。こうして合戦の幕は切って落とされたが、それは鉄砲を使って従来の戦法を一変させてしまうことになる。
入館する前、信玄塚を駐車場の脇で見た。当時の大将はその子勝頼だが、信玄がいかに偉大な人物だったか、この命名からも分かるようだ。両軍の戦死者は1万6000人を数えたとも言われ、塚の前で毎年8月15日行われる慰霊の火祭り「火踊り(ひおんどり)」を紹介するコーナーも設けられていた。
資料館を出るとき、地形や合戦の状況などを示す模型がなかったことに気付いた。模型で両軍の動きなどが見られたら、もっと面白くなると思ったものだが。それはさておき、散策図をもらってこちらも、いざ出陣!
決戦場、いまはのどかに 連吾川の小ささに驚きすら
設楽原は茫洋とした原っぱをイメージしていた。実際、足を踏み入れて真っ先に感じたのは「こんな狭いところで戦ったのか」という驚きだった。雁峰山の尾根が並ぶようにして延びた、その山あいの狭い地域が古戦場だった。
資料館は武田側陣地の高台にあり、坂をぶらぶら下ると連吾川に出る。周りは早苗の青さもさわやかな水田で、カエルのにぎやかな合唱も聞かれた。連吾川に架かる柳田橋には騎馬隊などのレリーフがはめ込まれており、この一帯も激戦が展開されたところだそうである。
ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川
橋のたもとに「設楽原をまもる会」の手で、いろはかるたの句標が立てられていた。ここでの戦跡巡りはかるたが名ガイド役を果たしてくれる。資料館で模型のないのに不満を持ったが、こうして歩いてみると、狭い区域で両軍の動きが手に取るように分かる。
それにしても、こんな小さな川をはさんで戦っていたとは。いま見下ろしている川の幅はわずか3、4メートルほどしかない。徳川・織田3万8000の兵がここまで押し出し、それに武田軍が次々と襲いかかって、戦いは10時間にも及んだと伝えられている。
川を渡ると連合軍側の陣地となり、馬防柵が復元されていた。川に沿って延々と張り巡らされたその陰に、3000丁の鉄砲隊が息をひそめて待ち構えていたはず。そして、その背後は次第に高台となり、そこには家康や信長の本陣が置かれていた。
騎馬を主力とする武田軍がどうしてこんなところで戦うことになったのか。ひょっとすると馬防柵の構築を砦造りと早とちりし、それを防ごうとして襲いかかったのでは。こんな狭いぬかるみの地に、うまうまと誘い込んだ連合軍側をあっぱれと言う他はない。
あれこれ夢想しながら資料館の駐車場へ戻る途中、松のてっぺんでカラスが2羽たがいに甲高い声で鳴き合っていた。それは信長の、家康の高笑いのようにも聞こえてきた。そしてまた、しきりに鳴くカエルの声は戦死者たちの霊を慰めようとするお経でもあったのか。
信玄、上洛の夢消える 野田城に残る信玄の上洛断念伝説
設楽原合戦の2年前、上洛をねらう武田信玄は宇利峠を越えて三河に侵入してきた。進路に当たる野田城は2万5000の大軍にたちまち包囲され、四、五百の城兵は篭城を余儀なくされた。しかし、城は堅固に造られており、兵たちの士気も高かった。
戦いは意外にも長期戦となった。そんなある日、信玄は城中から流れてくる笛の音に聞きほれ、本陣を抜け出して城を望む地に近づいた。その瞬間を待ち構えていた鳥居三左衛門にねらい撃ちされ、信玄は深手を負ってしまったのである。
この傷がもとで甲斐へ帰る道中で死んだ。たえなる音色で誘い出した笛の名手は村松芳林とも伝えられている。野田城は信玄の上洛断念の地として、歴史にその名を残すことになるのである。
城は自然の川をせき止めて堀とし、三つの曲輪から成る連鎖式の山城だ。道路脇にあった案内板のところから林の中に分け入ると、本丸跡には「野田城址」と彫られた石碑が建てられ、その近くには稲荷が祭られていた。信玄は甲斐から金掘り人夫を呼び寄せて城内の井戸水を抜いたそうだが、城兵1人につき1日お椀3杯分の水を贈ったとの美談もここには残されている。
堀跡と見られる低地に寺があった。境内を左に折れて石段を登った高台が信玄の撃たれたところだという。そこには供養塔らしいものがあり、脇に「伝説 信玄が撃たれた場所」と書かれた立て札もあった。
現地に立つと素直に信じたい気持ちになるが、一方ではこの狙撃事件は伝説とする見方もある。しかし、ここ野田城で上洛をあきらめたのはまぎれもない事実であり、信玄といい勝頼といい、武田氏にとって新城の地は無念の地であった。そんなことを思いやってか、あるいはその怨みを恐れてか、この土地の人たちの武田氏へ寄せる思いはひときわ強いものがあるようだ。
自然の息づく落ち着いた町 三河の嵐山、豊川沿いの桜淵公園
昼食は豊川沿いの桜淵公園でとることにした。料理店や旅館、ホテルなどが並び、川魚料理が名物らしい。その名の通り、公園を埋める桜と豊川の造り出す淵が見もので「三河の嵐山」とも言われている。
食後に園内を散歩したが、至る所に桜の木があった。寛文2年(1662)、時の新城城主菅沼定家が植えたのに始まるという。花のシーズンが終わってもツツジ、ボタンと続き、夏にはプールやキャンプ、ボート遊びなどでにぎわい、秋には紅葉がこれまた見事らしい。
釣り橋を渡った対岸の一角に、茅葺きの民家が復元されていた。「釜屋建て民家」という豊川流域でよく見られる農家の建築様式だとか。母屋に「釜屋」と呼ばれる仕事場 をセットした、簡素な造りながら美しい2階建ての民家だった。
桜淵公園は自然豊かな公園で、市民には格好のいこいの場となっている。まだ帰るには時間があったので散歩中の人に「どこか他に見どころは」と聞くと、しばらく考えたすえ「花の木ダムはどうか」とのこと。そこは豊川をさかのぼった鳳来町寄りにあるらしい。
なるほど、これは壮観だ。ごく普通のダムを想像して来たが、引き込みの水路からあふれ出る水は滝となり、その幅は数十メートルにも及んでいる。そして、これを見る足元には浸食されたできた奇岩が続いているのだった。
ダムの下流は峡谷となり、その景色もまた見事だった。夏の風物詩としてテレビなどでよく見かける、飛び跳ねるアユをタモですくい取る「鮎滝」もここにあった。あたりをしばらく散歩しながら、何だかいい拾いものをしたような気分になってきた。
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