かつては海の中だった 南部は名にし負う工業地帯
「……何か見どころのようなものはありますかねえ」
次の訪問地を飛島と聞いて、相棒はこうもらした。「人の住むところに歴史ありだよ」と答えたものの、それらしい史跡がこちらにも思い浮かんでこない。名古屋のすぐそばにありながら、通り過ぎるだけの村でしかなかった。
飛島村はその全域が干拓によってできており、典型的な海抜ゼロメートル地帯だ。埋め立てられる前は東海道の熱田と桑名とを結ぶ「七里の渡し」の航路に当たっていた。それが時代とともに南へ南へと延びてゆき、南端の造成地には木材や造船、流通などの企業がひしめき、コンテナや自動車の専用埠頭を持つまでになっている。
北から南へ車を走らせてみた。温水プールや図書館などのある「すこやかセンター」は目を見張るほど立派な施設だし、隣接してある大きな建物は中央公民館と総合体育館だった。あたりには水田の広がる農村風景が続き、臨海工業地帯となった南部とは好対照を見せている。
村の中ほどに「伊勢湾台風殉難の碑」が建てられていた。村は台風で大きな被害をこうむったが、そのころから始まった高度成長に歩調を合わせるかのように飛躍的な発展を遂げてきた。野良仕事をしていたお年寄りに変貌ぶりなどについて尋ねたところ、最後に「おかげでありがたい時代になった。いま村は『日本一の長寿村』を目指して頑張っとってくれるで、みんな安気に暮らせる」と笑顔で付け加えられるのだった。
この村の人口は約4500人(約1200世帯)と言い、このところ「横ばいないしは減少ぎみ」だとか。そのせいもあって周辺地域に比べると1人当たりの民力は飛び抜けて高い。中には「転入してくるのをこばんでいる」とのやっかみとも思える声もないではないが、「村内のほとんどが市街化調整区域で家は建てられない」とのことだった。
そんな目で見回すと、一軒一軒の家は大きく裕福そうだった。近郊でよく見られるアパートやマンションなども見かけない。日光川をはさんで名古屋と接していながら、他の自治体とはどこか違ったのどかな風景が展開していた。
“生みの親”津金文左衛門 あちこちに功績讃える遺跡
さあ、この村の見どころを探し出さなくては。埋め立てられてできた村だけに、干拓を推進した立役者やそれにまつわるエピソードなどがきっとあるはず。ひょっとすると「七里の渡し」航路跡の碑だって建てられているかもしれない。
役場近くの神明社で津金文左衛門胤臣(たねおみ)の銅像を見つけた。文左衛門と言えば名古屋の熱田前新田を開いたものの、その出費に責任を感じて自刃した人物ではないか。こちらでも干拓事業を陣頭で指揮し、熱田前の2倍以上にも当たる陸地を開発していたとは。
彼の活躍したのは江戸時代後半ごろのこと。尾張9代藩主徳川宗睦(むねちか)は小禄だった文左衛門や水野千之右衛門らを抜擢、干拓や河川の改修などを推進して“尾張藩中興の祖”と言われた人。熱田奉行兼御船奉行の職にあった文左衛門はその命を受け、享和元年(1801)に飛島新田を開発、今日の発展の基礎を造っていたことになる。
近くの長昌院という寺には文左衛門の供養碑もあった。彼は名古屋の大須にある大光院に葬られたが、戦後、その墓所が平和公園に移される折、地元の人たちの強い要望でその一部を墓標代わりにもらい請けることになったとか。そして、この寺の建てられている場所が干拓するに際して本拠を構えたゆかりの地でもあった。
文左衛門の足跡はいまも村のあちこちに残されている。そうした一つ一つを眺めていると、村人たちの感謝の気持ちがひしひしと伝わってくるようだ。こちらには「津金講」という組織もあって、毎年5月にその供養がしめやかに行われているとのことである。
「文左衛門がいまも生きているようだ。あまり語られることのない名古屋に比べたら幸せだよなあ」
静かな村内を歩いていて、こうつぶやいていた。ここでは日々の暮らしの中に隣り合わせて文左衛門がいる。開拓者にこれほどの思いを寄せている土地柄もあまりないのではなかろうか。
新田の村にも善光寺さんが 緑青の大屋根、しっくりと
長昌院の近くを歩いていたら大きなお寺が目に入ってきた。屋根を銅版でおおった重層式の建物で、新田の村には不釣り合いとも思えるものだ。歩を進めると仁王門もあり、定額山善光寺とあった。
歴史の浅いこの村にも信濃の善光寺は勧請されていたのか。聞くところによると、明治32年に本尊の阿弥陀如来と脇仏の観音、勢至両菩薩をもらい受け、近くに仮堂を建てて安置したのに始まるとか。3体の仏像は善光寺が全国各地を巡回、開帳していた由緒あるものだそうな。
この地方でも生活が落ち着くにつれて善光寺参りをする人が増え始め、信者の中には1カ月前後もかけて旅に出掛けるまでになってゆく。明治の中ごろともなると「村にも善光寺さまを」との声が高まり、3000人の誓願をもとにお迎えすることに。現在の場所に本堂が建てられたのは明治38年のことだそうである。
本堂の大きさは間口約14、5メートル、奥行き約20メートル、高さ約12、7メートル。外観は信濃の善光寺に似せて造られており、境内に立つと小さいながらも本山に参ったような気持ちになる。こちらでも本堂床下に造られた「お戒壇巡り」ができる。建物当初はかわら葺きだったそうだが、伊勢湾台風のあった昭和34年に、大屋根の部分が銅版に葺き替えられている。
そう言えば、門前に伊藤萬蔵さん寄進の「善光寺御分身尊佛」と彫られた大きな石柱もあった。この人は常夜灯や狛犬などの石造物を寄進し続けた稀代の篤志家。明治から大正期にかけてあちこちにその名を残しており、「ないのは北海道ぐらい」とまで言われるほどの人物だ。
筆者は謎の多いこの人物を追い掛けているが、どうしてその気になったのか、どこからお金が出てくるのかなど、分からないことばかりだ。当の寺社に当たっても寄進の経緯や人物像を語ってくれるところはいまだに1軒もない。ただ共通している寄進先はいずれも有名な寺社に集中していることで、萬蔵さんは飛島村にも善光寺が勧請されることを知って、またまた張り切ってしまったにちがいない。
石碑が語る親孝行物語 けなげな娘に里人も感動
「この村に見るものはなんにもないわ。観光地とは違うもんでねえ」
何かいい見どころはないものか。食事のついでに店の人に尋ねてみたのだが、返ってきたのはこんなそっけのないものだった。それでもめげずに「例えば大きなケンカがあったとか、ユニークな人がいたとか」と水を向けると、
「そーいや、親孝行の娘さんがいて、小さいけど記念碑もある」
ええっ、記念碑まで? 教えられた大宝新田の大宝寺へ来ると、本堂の脇に「孝女和喜(わき)」の碑が建てられていた。かたわらには教育委員会の手になる解説板も。
そこには「享保18年(1733)に大宝新田の貧しい農家に生まれ、早くから奉公に出された。給金はすべて親の生計費にあて、家は妹に養子を迎えて継がせ、自分は父と別居して孝行を尽くした」旨の詳しい説明が施されていた。近隣の人たちは親思いのけなげな姿に感動し、実名を呼ばず「孝女」「孝女」とほめそやしたともある。
これに類した話はちょくちょく耳にする。隣接の十四山村にも「孝女そよ」の話や「忠女はる」の話が伝えられている。江戸時代の後期にこうした孝行話が多く残されているところを見ると、尾張藩というよりも幕府が美談として発掘を奨励したのかもしれない。
ここを訪れる人はあるのだろうか。お庫裏さんに尋ねてみると「たまにはある」と言いながら「ご子孫は村におられませんが、10年ほど前にわざわざ訪ねていただいたこともありました。実は和喜さんの歌もできていましてね、老人会の人たちが正月の最初の集まりのときにみんなで歌っておられるようですよ」とも教えていただいた。
碑は嘉永7年(1854)大宝新田の地主が彼女の功績を後世に残そうと建てたもの。いつまでも語り継いでいってほしいものだ。
[情報]飛島村役場
〒490-1436 愛知県海部郡飛島村大字飛島新田字竹之郷222
TEL:05675-2-1231
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