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岐阜県谷汲村

深い味わい、横蔵寺と華厳寺 巡礼街道に道教え地蔵や道標

千古の森に見事な三重の塔
“美濃の正倉院”横蔵寺

 車を降りて小さな赤い橋を渡れば、そこはもう幽玄の世界だった。あたりには老樹が林立し、空気までが清々しい。石畳に誘われるようにして進むと、鐘楼を兼ねた2階建ての堂々たる仁王門があり、その向こうには華麗な姿をした三重の塔がそびえ建っていた。

 西美濃第一の“霊場”両界山横蔵寺。寺伝によると、延歴20年(801)桓武天皇の勅願により、伝教大師(最澄)がこの地の長者・三輪三太夫を施主として創建した。平安、鎌倉時代には38の僧坊を持つ大伽藍となり、周辺各地に300を越す末寺があったと言われている。

 創建に際して伝教大師は自ら斧を振るい、比叡山の薬師如来と同じ木で本尊を作ちれた。比叡山は後に信長に焼かれるが、再建の折、ここの薬師如来像を移して根本中堂の本尊とされている。その代わりとして迎えられたのが京都の北、御菩薩ヶ池(みほろがいけ)のほとりに祭られていた「伝教大師一刀三礼」と伝えられる現在の仏像だそうで、これは秘仏とされて60年に一度開帳されることになっている。

 この寺は別名“美濃の正倉院”とも呼ばれる。伝教大師ゆかりの本尊をはじめ、仏像22体が国の重要文化財に指定され、その他にも絵画や彫刻、古文書など多くの寺宝類を抱える。それらのごく一部ではあるが、境内に設けられた“宝物館”瑠璃殿で拝観することもできた。

 本堂での参拝を終えて左背後に回ると、ミイラの安置された舎利殿があった。訪れる人の関心もこのお堂にあるようで、壇上に祭られたミイラの座像をしげしげとのぞき込んでいく。その人、妙心上人は信徒に作らせた棺の中で座ったまま入定されたそうだが、それにしてもよくぞこのような形で成仏できたものである。

 

笈摺にあふれる満願の喜び
西国巡礼の札止め、谷汲山華厳寺

 もう一つの名刹、華厳寺は一般に谷汲山の山号で親しまれている。西国三十三か所巡りの満願霊場であり、こちらは参拝客もひっきりなしだ。

 木々のうっそうと茂る境内は荘厳な雰囲気につつまれ、仁王門、十王堂、本堂など諸堂の木肌が、長年の風雪に耐えてきた歴史をしのばせている。寺の創建は延歴17年というから、横蔵寺より3年古いことになる。

 奥州会津郡の住人・大口大領(だいりょう)は京都で十一面観音を作らせたが、この地まで運んできたところで突然、動かなくなった。大領は「ここに留まりたいという観音様のご意思」と思い、在地の豊然(ぶねん)上人を開山として一宇を建てたのだった。

 寺は延喜7年(907)醍醐天皇より「谷汲山華厳寺」の扁額を賜り、寛和2年(986)には花山法皇により西国巡礼の札止めと定められた。現在の西国三十三か所巡りの旅は和歌山の青岸渡寺(せいがんとじ)を発願の寺とし、大阪、兵庫、奈良、京都、滋賀の寺々を回り、ここ華厳寺で終わる。本堂向拝の太い柱には青銅製のコイが打ち付けられていたが、これには満願の喜びにひたりながら手でなでると精進落ちになるとの言い伝えもある。

 本堂裏手に笈摺堂(おいづるどう)があった。花山法皇は三十三か所を巡ってこの寺に参詣されたとき、「今までは親と頼みし笈摺を脱ぎて納むる美濃の谷汲」との歌を添えて奉納された。「笈摺」とは巡礼者がまとう薄い衣のことで、堂内には色とりどりの折鶴とともに、数十万とも言われる笈摺が山のように積み上げられていた。

 参道脇の旅館に宿をとった。“温泉”があったのも意外だったが、コイなどをあしらった料理も豪勢だった。泊まり客の中にはお遍路さんたちも多く、その表情には谷汲に参れた喜びに満ちあふれていた。

 

樹齢千年、岐礼の一本杉
近くの寺に、土岐氏最後の墓

 なるほど、来てみれば予想した以上のスケールだった。谷汲の旅を二つの寺で終わらせたのではもったいないと、みやげ屋のおばさんに“知られざる”名所を尋ねてみた。初めは「新しくできた道の駅ぐらいで、他には何もないわねえ」と笑っていたが、しばらく考えたすえ、「岐礼の一本杉、あれはひょっとして名物になるかもしれんなあ」。

 これまでさまざまな種類の巨木、大木を見てきた。しかし、この幹のたくましさはほれぼれするほどで、サクラやモチノキをのみ込んで悠然とそびえている。幹回りは8、25メートルとあるが、それよりもはるかに大きそうに見えるし、高さは優に30メートルを越えていようか。

 大杉の下にある神宮神社の社殿が木陰に隠されてしまいそうだ。木は神社の神木として大切にされ、樹齢は千年に及ぶと推定する人もいる。天を突くその雄姿は神々しく見えたものだ。

 近くの法雲寺に土岐頼芸(よりよし)の墓があると聞いて出掛けてみることにした。墓は自然石を利用した素朴なもので、これが美濃の守護だった土岐家最後の武将の墓かと、いささか感傷的にさせられる。墓は近くを流れる根尾川沿いの山麓にあったそうだが、昭和49年にこの寺に移されて懇ろに供養されている。

 頼芸は“マムシ”の異名をとる斎藤道三に押されて兄・政頼(まさより)に挑戦した。勝って守護職に就任したものの、今度は道三に追放される身となった。6人の家臣に見守られながら岐礼に落ち延びてきたわけだが、まさに戦国国盗りゲームの悲しい犠牲者であった。

 土岐氏と言えば、美濃の守護として12代200年も続いた名家。粗末な石に刻された「大居士」の法号に、その末路が一層哀れに思えてくるのだった。

 

のどかな山懐に思わず歓声
謎秘めた古社「花長下神社」

 「おお、何というきれいな!」

 目の覚めるような光景に、思わず声を上げてしまった。花長下神社という面白い名を地図上で見つけ、そこへ向かう道中でのこと。中名札という小さな集落を出たとたん、山懐に抱かれたのどかな田園風景が飛び込んできた。


豊年を願って舞われる谷汲踊り
豊年を願って舞われる谷汲踊り
 一本の細い道が山に向かって延びている。ここから先は一軒の民家とてもない。もちろん、あたりに電柱や看板などは一つとしてなく、そのひなびた風景に遠い昔のニッポンを思い浮かべてしまった。

 神社は道に面してポツンと建っていた。小さな社殿ながらどことなく風格が漂い、そのたたずまいからも由緒のほどが感じられてくる。背後に山をひかえ、こんもりとした森に守られていた。

 鳥居の脇に「ヒメハルゼミ発生之地」と彫られた石柱が立てられている。この小形のセミが棲息するのは日本でもわずか数か所しかなく、谷汲で確認されているのはこの神社の森の中だけだとか。そんな案内板を見ると歓声を上げてしまったのももっともで、自然豊かなこの地区に「ふるさと風景日本一」の称号を与えたい気持ちにすらなってくる。

 近くには花長上神社もあり、2社は対となり夫婦の神様だそうだ。ともに式内社とあるから、やはり格式は高い。祭神ははっきりしていないとのことだが、「花」は「鼻」に通じ、鼻の長い神様となると天狗か“鼻長七咫(あた)”と言われた猿田彦とでも関係があるのではないか。

 山と田んぼだけの、何もない風景に感動した。が、その一方ではベールに包まれた神社の歴史に一層の興味が湧いてくる。鼻の下が長い……などと下司(げす)な考えで訪れたが、何だか難しい宿題を与えられる旅となってしまった。

 

[情報]谷汲村役場
〒501-1314 岐阜県揖斐郡谷汲村名礼265-43
TEL:0585-55-2111

 

 

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