マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
岐阜県付知町 |
名水と森林浴のふるさと付知峡 “青い川”付知川流れる「木の葉の村」
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行楽のメッカ、付知峡
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轟音を上げて流れ落ちる仙樽の滝 |
さらに奥へと進んだ。危なげな釣り橋を渡ると、今度は仙樽の滝の前に出た。こちらも水量は昨夜からの雨で多く、怒り狂ったようにあたりに猛烈な水しぶきをまき散らし、まるで人の近付くのを拒絶しているかのような荒々しさだっだ。
「こんなのどかなところで、そんな激戦があったのか……」
折り返して、先ほど通ったキャンプ場のある、その名も攻橋の上。春は新緑、秋は紅葉。多くの行楽客の訪れるこの橋の下流あたりが古戦場だと聞かされても、初めのうちはどうもぴんとこなかった。
時は500年ほど前の戦国の時代。飛騨荘川、白川郷に潜んでいた平家の子孫は猛将・三木修理助重頼を押し立て、白巣峠を越えて木曽の王滝に攻め込んだ。これを迎え討つのは義仲16世の子孫義元。戦いは意気上がる三木側の圧勝に終わって、まずは祖先のうらみを晴らすことができた。
彼らは帰路を木曽川に沿って坂下へ下り、そこから付知川をさかのぼってきた。ところが、主君を失った義元の重臣・古幡伯耆(ふるはたほうき)は残党400人ほどをかき集め、王滝から真弓峠を越えてここ宮島へ先回りしていた。
そうとは知らぬ三木勢、不意をつかれて重頼以下473人全員が討ち死に。この戦いで木曽勢も187人の犠牲者を出している。時に永正元年(1504)7月12日のこと。
近くの小山に小さなお堂があったが、そこには骨牌地蔵が祭られていた。戦いに勝った伯耆は家臣の灰や骨を持ち帰っていたが、その40年後、骨灰を陶土に混ぜて地蔵尊を作ることにした。その依頼を受けたのが瀬戸で“陶祖”と呼ばれた加藤藤四郎11代の子孫・唐四郎だという。
地蔵尊は高さ19センチの小さなもの。その前面には経文が、裏面には由来が伯耆自らの手で刻まれているとか。こんな静かな山峡で激しい戦いが繰り広げられたというのも驚きなら、飛騨や木曽、それに尾張の瀬戸までが加わってくる話も意外に思えてきた。
町の中心部に熊谷守一の絵画を展示する記念館があった。熊谷は明治37年に東京美術学校を卒業、30歳のとき母の死にあって帰郷し、山中で日雇い生活を送っていた。才能を惜しんだ友人らの勧めで再び上京、その後、わが国近代美術史に大きな足跡を残すことになる。
展示されている作品は晩年のものが多かった。いまはやりのウマヘタ絵のような作品もあり、「ご覧になった天皇から『子供が描いたのか』とのご質問もあった」旨の解説には思わず笑ってしまった。仙人にも似た口ヒゲをたくわえ、草の上に寝転んでいる写真は“仙境の画家”とも言われた彼の人柄をいかんなくしのばせてくれている。
昭和42年、熊谷はそれまでの業績が認められ、文化勲章の受賞者に内定した。が、「これ以上、人が来るようになっては困る」との理由で辞退してしまったそうな。昭和52年8月、97歳で永眠している。
しばし熊谷画伯の絵を楽しんだ後、この町のもう一つの隠れた名所、阿寺断層を見ることにした。昨夜は役場近くの旅館に泊まったが、そこで知ったのは台湾で起きた大地震だった。テレビに映し出される無惨な光景を見ながら、ご主人から「ぜひ見て行って下さいよ」とすすめられていた。
阿寺断層は付知峡大橋を渡り、信号を左折したところにあった。解説する看板がなかったら、まったく気付かずに通り過ぎてしまいそうなところだ。雑草におおわれてはいるが、南北に走るはっきりとした段差があり、しかもその差は何と10メートル近くもあった。
濃尾地震の爪跡を根尾村で見た。先の神戸やトルコでの地震でも、その断層をテレビや新聞などが撮し出していた。しかし、それらとは比べものにならないほどのスケールだ。幸いこちらは1万2〜3000年ほど前にできたものだそうだが、地球のいたずらにはただただあきれるばかりであった。
「この村は尾張藩の直轄地にされていました。やってきた目付が村の絵図を見て『木の葉の村』と言ったそうですよ。町は付知川に沿ってウナギの寝床のように細長く、両脇の山から流れ出る川はきっと葉脈のように見えたんでしょうな」
こう話して下さるのは、かつて庄屋職を勤めた田口家21代のご当主・田口慶昭(よしあき)さん。付知はヒノキに代表される木曽五木の産地であり、伊勢神宮の遷宮や名古屋築城の折にも多くの用材を出してきた。山から切り出す様子を描いた「運材絵図」を示しながら、田口さんの言葉はさらに続いた。
「木曽よりもむしろこちらの方が木の育ちがいいんだそうですよ。雨量も多いですし、川霧が生育にいいとも。付知は昔から木の王国だったんですな」
ところが乱伐を恐れた尾張藩は一転、山林の保護政策に転換する。村人たちにとっては田畑の開墾が急務になってきた。田口さんの先祖は用水を開発するために村人たちの意見をまとめ、膨大な資金の調達に苦労しながらも、自分たちの手でそれをやってのけている。
「付知の人はよく働くし、何事にも積極性がある。若い人がこの町に来ても、気軽に声をかけて受け入れる。山奥だから閉鎖的と考えられがちですが、ここに暮らす人たちにそのような気持ちは薄いようです」
付知人の気質について尋ねたら、こんな言葉が返ってきた。その背後には銘木を求めて入り込んできた商人や山林作業に携わる人たちの移入の歴史もあったからか。江戸時代に入ると村の人口は急速に増えているそうだ。
林業はいまもなお盛ん。付知峡を中心とする観光での町おこしにも余念がない。都会との交流はますます活発になっていくことだろう。
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