マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
三重県宮川町 |
大自然息づく、山紫水明の地 アウトドア派には魅力いっぱい
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日本の秘境、大杉谷
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大杉谷で出会った谷川のせせらぎ |
2時間近くも歩いただろうか。先ほどから帰る時間が気になり出していた。名瀑や絶壁の連なるハイライトはいよいよこれからだというのに、名古屋から来ていきなり入ったのでは、とても奥まで行けそうにない。
いつか日を改めてまた来よう、そして、大台ヶ原まで行こう--後ろ髪を引かれる思いで、自分自身に言い聞かせた。大杉谷が秘境として生き続けていることを、この目で確認できたことでよしとしなければなるまい。
今夜の泊まりは5年前にできたという「奥伊勢フォレストピア」。役場にもほど近い、総門山(標高948メートル)のふもと。ここには温泉のあるしゃれた宮川山荘や何棟ものコテージが建ち、「森の国体験工房」としてパンやコンニャク作り、陶芸や木工、釣りなどの楽しめる各種施設もそろっている。
一汗流した後の温泉が心地よい。いまはどこへ行っても温泉に入れるいい時代になったものだ。露天風呂で居合わせた中年の人は松阪から来たそうで、釣りを兼ねてこの村へちょくちょく遊びにくるとか。
「ここは一時、大慌てしましたわ。1000メートル掘っても出てくる気配がない。神仏に祈るような気持ちで掘り進み、1500メートルぐらいまで掘ったところでようやく34度のお湯が噴き出してきましてなあ。それを聞いた村人たちは歓声を上げて喜び合ったそうですよ」
なるほど、そんな緊迫のドラマもあったのか。ぬるっとしていて、なかなかいい湯だ。重曹を多く含んでいて肌によいとかで、「美人の湯」とも「美肌の湯」と言われて人気だそうである。
翌朝、目覚めると目の前の総門山に。「一本松周遊コース」「野鳥の森コース」「健康の森コース」など、樹林の中にいくつもの遊歩道が設定されていた。途中の展望台で引き返すことになったが、頂上からは富士山の見える日もあるらしい。
宿を発つ前、各工房をのぞいてみた。コンニャクを作る「山菜の家」ではもうもうと立ち込める湯気の中、2人の主婦がヨモギを入れたコンニャク作りに励んでいた。隣のリース作りと木工体験の「花ざいくの家」ではおばあさんが山で採ってきた植物のつるや木の実などで花輪の製作に懸命の様子。レジャーの拠点施設「奥伊勢フォレストピア」は今日も多くの人たちでにぎわいうにちがいない。
この村はものすごく広い。東は村内の特産品などを扱う「ふるさとプラザもみじ館」から、西は大杉谷の最奥・奈良との県境まで。面積は300平方キロメートルを超え、一つの郡にも匹敵する広さだ。
それでいて、村の人口は4000人ほど。三重県下の市町村では最大の面積を有し、それ故、最小の人口密度という記録も持つ。村の中央部を流れる宮川沿いに人家が点在するが、全体の97%は山林という森林王国である。
平成3年、その宮川が一級河川として「日本一きれいな川」と認定された。源流で採取された名水「森の番人」はすっかり村の名物となり、宅配便で全国に送り出されるほどの人気。昨日泊まった宿のレストランではワイングラスでおごそかに出されてきたし、村内のハイキングなどにも欠かせないグッズの一つとなっている。
その取水地は昨日訪れた大杉谷の手前にあった。宮川に注ぎ込む、人家もない春日谷川。大台ヶ原から湧き出した水は滝となって流れ落ち、滝つぼの脇には小さな不動明王も祭られていた。
近くでは豊富な水を利用にしてワサビ田もあった。モリアオガエルの群生地もある。そして、本流に沿って少しさかのぼると、大杉谷の名になった大きな杉の木を神木とする大杉神社もあった。
杉林の中でその大杉はひときわ異彩を放っていた。一説には樹齢1200年とも言われ、天平時代にこの地に根ざしたとか。かつて一帯はこうした巨木が樹海のように生い茂り、伊勢神宮の遷宮に用材として切り出されたこともあるそうだ。
樹高約40メートル、幹周り9・2メートル。大杉は古文書にも記されているそうだが、実際の樹齢300年から400年ほどのものではなかろうか。それでも天を突くように真っ直ぐに伸び、コケむした太い幹は神々しさにあふれていた。
帰りがけに古寺、大陽寺を訪ねた。高台に石垣を巡らせ、まるで城郭を思わせるようなたたずまい。参拝者の多いのにも、またびっくりである。
門前の案内板によると、寺は平安時代の中ごろ、花山法皇が西国三十三カ所巡りの途中に立ち寄り、時代は下って伊勢国司・北畠材親(ただちか)が堂宇を建てて祈願所にした、とある。霊符山と号する曹洞宗の寺で、本尊は北極星と北斗七星を本体とする北辰妙見菩薩とか。
たまたま訪れたこの日が春の大祭に当たっていた。仏前には7、80センチもあるタイや1メートルを越すブリが何匹も供えられている。寺はとりわけ「海上安全」「大漁満足」の霊験があらたかだそうで、伊勢の漁民たちがわざわざ山深いここまでお供え物として運び込んでいるのだった。
信長の伊勢攻めで北畠氏は8代で滅亡、寺もそのとき戦火を浴びて焼失している。現在の本堂は文化3年(1806)から17年をかけて再建されたものだとか。見上げると、内陣の天井には狩野派の絵師による見事な巻き竜が描かれていた。
背後の山には奥の院もあるらしい。信者の一人は「星の宮」と言っていた。この寺は内陣に仏像を安置しながら神前のような飾り付けも施されており、神仏習合と言うよりは神仏合体と言った方がいいほどの造りである。
急な坂道を登ること5分ちょっと。古木に見守られるようにして小さな社(やしろ)が鎮座していた。星の宮とはまたロマンチックな名前だが、ここの祭神もやはり北極星や北斗七星なのだろうか。
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