マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
長野県阿智村 |
歴史と文学と湯煙の里 南信州最大、昼神温泉郷
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古代ロマン漂う園原の里
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義経ゆかりの「駒つなぎの桜」 |
道は深い樹林の中を通る。吹き抜ける風がほおに心地よい。この小道がいにしえの人たちの通った道かと思うと、何気ない風物までが輝いて見えてくる。
やがて「姿見の池」に出た。炭焼き吉次に嫁いだ都のお姫様が鏡の代わりにしたという池。古道脇の田んぼにほんの申し訳程度にあり、しかもそこには水がまったくなかった。
園原で一番先に朝日が当たる「朝日の松」も見て、山道をさらに上ると「暮白の滝」に出た。夕暮れどきにはほの白く見えることからこの名が付けられた。滝見台に置かれていた素焼きの皿を投げたら、谷底から吹き上げる風に乗ってチョウのようにひらひらと舞った。
近くの山中には『源氏物語』にも詠まれた「帚木(ははきぎ)」があった。古くは帚(ほうき)を逆さに立てたような巨木だったそうで、遠くからはよく見えるのに近付くとどれだか分からないという伝説の木。光源氏は空蝉(うつせみ)に思いを寄せ「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」と歌い、彼女はわが身をいやしんで「数ならぬ伏屋(ふせや)に生(は)ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木」と返歌した。木は伊勢湾台風で倒れて根本の部分を残すだけだったが、いまはそこから生えたひこばえが大きく育ちつつあった。
少し奥の山地に神坂(みさか)神社が鎮座していた。社殿のそばにあった樹齢2000年という「日本(やまと)杉」と栃の大木には目を見張った。境内には「日本武尊(やまとたけるのみこと)腰掛け石」や防人(さきもり)の歌を刻んだ「万葉歌碑」、園原の里の来歴を記した「園原碑」などもあり、気が付けば街道散歩は文学散歩となっていた。
ゲートから神坂神社までは約1キロほどの距離。道は岐阜(中津川市)との県境、神坂峠へと続いて行く。そこへはまだ6キロほどあり、歩けば優に3時間はかかろうか。
ゲートまで戻り、車で行くことに。が、途中で進めなくなってしまった。どうやら車では登れそうにないらしい。
古代、神坂峠は東山道屈指の難所だった。東国へ向かう都人にとって、峠から眺める伊那谷やその向こうにそそり立つ南アルプスの山々は目に焼き付いたにちがいない。いまは古道北側の地中を、恵那山トンネル(中央自動車道)が一直線に通り抜けている。
神坂峠へ行きたくなった理由の一つは、滝見台のそばで見かけた藤原陳忠(のぶただ)の故事を記した小さな石碑だった。肯Z時代の教科書で国司の貪欲さを物語るエピソードとして「受領(ずりょう)は倒るるところに土をつかめ」という言葉を学んだ。その人が信濃守陳忠であり、舞台はここだったのだ。
陳忠は任期を終えて都へ帰ることになった。その途中、峠のあまりのけわしさに、馬もろとも谷に転落してしまう。谷底からかすかに聞こえる「おーい、助けてくれー」との声に、家来たちはあわててカゴに縄を結び付けて下ろした。
確かな手応えに引き上げると、平茸が山ほど入っていた。もう一度下ろすと今度は陳忠が平茸3房を手に、「まだまだあったのに」と不満そうな顔で上がってきた。『今昔物語』に紹介されている話だが、それがこの先の神坂峠の出来事だったとは−−。
中央道で簡単に行ける昼神温泉は手ごろな名古屋の奥座敷といったところか。阿智川沿いに近代的なホテルや旅館などが建ち並んでいる。かつてこの地は「湯之瀬の洞」と言われながら幻の温泉地でしかなかったが、昭和48年、当時の国鉄が地盤調査のためにボーリングしたところ、突然、噴き出して村民たちを喜ばせた。
無色無臭で透明、ぬるっとしている。泉質は“名泉”と言われる下呂よりもいいのではないか。それでいて宿泊料金も比較的安く、探せば1泊2食で1万円のところだってある。
最近、村営のクアハウス「湯ったりーな昼神」ができ、ここの人気はさらに甲ワった。露天風呂やサウナのある浴室はもちろんのこと、水中運動用の温泉プールまでもある。泊まり客は宿で楽しみ、ここでもまた一風呂浴びる、そんな温泉三昧も手軽にできてしまう。
「とりたて。安いよ、安いよ」
「買ってって。おみやげに喜ばれるに」
すっかり名物となった昼神温泉の朝市。観光センター前の広場にはこの村の特産品や旬の野菜などがずらりと並べられていた。朝の来るのを待ちかねていたかのように浴衣姿の泊まり客があちこちから集まり、農家の人たちと会話を楽しみながら新鮮な農産物を買い込んでゆく。
買い物袋を手に、朝食前の散歩。温泉街にある阿智神社は平安初期の神社名鑑「延喜式神名帳」に記載されている由緒ある古社だった。ここは前宮(里宮)だそうで、本社(奥宮)は阿智川を2キロほどさかのぼった山の中にあるとか。
町を見下ろす航艪ノは小さな公園もあった。片隅に湯屋権現が祭られている。発見の経緯はこの神社の由緒書きに教えられたわけだが、いまでは年間60万人を集める伊奈谷きっての温泉地となっている。
横川集落には「秘境」の二文字がよく似合った。チョウが舞い、ウグイスやホトトギスが鳴き、谷川からは口笛を吹くようなカジカの美声も。明るく静かでのどか、自然味たっぷりだが、いまでも隔絶された雰囲気を色濃く漂わせていた。
この山里に武田信玄の遺体を埋めた「将軍塚」があるというのだ。集落から500メートルほど奥へ行き、マムシでも出そうな雑草をラッセルして進む。塚は甲ウ6、7メートルもある大きなもので、その前には木製の粗末な鳥居も建てられていた。
村人たちの言い伝えによると、信玄は上洛の途次、病におかされ、帰国の道中で亡くなった。遺体は密かに人跡未踏のこの地へ運び込まれて埋葬されたうえ、墓守としてその家臣を近くの清内路村に住まわせたという。信玄終焉の地はあちこちにあるようだが、果たせなかった「将軍」を冠したやさしさに、いたく感動させられた。
村の中心地は飯田に近い駒場地区で、役場などの諸施設もこちらにある。古くは東山道の、近世には三州街道の宿駅とされた交通の要衝。後ほどここにある長岳寺を訪ねたら、信玄はこっちで火葬に付されたとある。
境内には十三重の供養塔が建ち、その脇には重臣・馬場美濃守を弔う五輪塔もあった。信玄愛用の兜の前立てなどゆかりの品々も残されているそうで、どうやらこちらの方が有力視されているらしい。先ほど訪ねた将軍塚を思い出しながら、しばし考え込んでしまうのだった。
阿智村の地図を眺めていて、ふと「これは山の四国だ!」と声を上げてしまった。形が四国にそっくりなのだ。東山道にある月見堂脇には立派な信濃比叡が勧請されていたが、この村は“新四国”八十八カ所を創出するにもふさわしい地形ではないか。
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