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長野県開田村 |
御岳山東麓に広がる信州・開田高原 そこは木曽馬とそばのふるさと
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木曽の御岳、白樺林の向こうに
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九蔵峠から見た御岳山 |
開田村へは木曽福島から国道361号で入った。新地蔵トンネルを抜けると、沿道から見る景色が一変した。道の両側にあった広告の看板がまったくなく、周りの山や森が輝いているかのように新鮮に見える。
そしてまた、村の中央部にある九蔵峠からの眺めがすばらしかった。正面にノコギリの歯のように、いくつもの峰を持った御岳山がどっかりと腰を据え、緑の山裾が周りに延々と広がっている。足元の道路端ではススキが早々と穂を出し、一足早い秋の風情を漂わせていた。
いまいるここはさらに奥へはいった御岳の山ふところ。シラカバやカラマツの林が広がり、キャンプ場や別荘なども点在している。大自然の中で空気までがうまい。
こちらには村営の温泉もできていた。御嶽明神温泉「やまゆり荘」がそれで、露天風呂から眺める御岳の姿はさぞかしと思われる。が、温泉は今夜の楽しみとして、次のところへ向かうことにした。
開田高原キャンプ場へ行く途中、「尾ノ島の滝」と書かれた標識が目についた。松林の中にできた、細い急な坂道を下る。あたりはすり鉢の底のような状態になっており、ひんやりとして肌寒いほどだ。
滝は高さ30メートルほどもあろか。水はどうどうと音をたてて落下し、周りに霧のような飛沫をまき散らしている。御岳の水を集めて、その迫力はなかなかのものだ。
傍らに設けられた説明板に「覚明がこの滝で修行した」旨の一文があった。覚明と言えば春日井市(愛知県)の出身で、一般の人でも登れるようにした御岳の開山だ。彼はこちら側から山へはいり、この滝で身を清めて行ったのか。
キャンプ場をこの目で見て、今晩の宿・西野温泉へ戻る途中でのこと。道路脇に並ぶ石仏群を見つけて車を停めた。ここはかつて覚明堂のあったところだそうで、よく見ると「御嶽大神」「御嶽山大権現」などと彫られた御嶽信仰ゆかりの碑がいくつもあった。
その石仏群の中には「平次郎地蔵」と呼ばれるお地蔵様もあった。この村も昔は尾張藩の領地で、森林の管理は「木一本に首一つ」と言われるほど厳重を極めた。そんな中で山火事が起きて厳しい詮議を受けることとなったが、いつも「うすのろ」と言われていた平次郎が自ら名乗り出て罪を一人でかぶった。
地蔵は彼の供養をするため、数年後、庄屋の発願で道しるべを装って建てられたものだ。木曽を旅していると何かにつけ、名古屋との縁が深いことを教えられる。遠い日の出来事ではあるが、こんな話を聞くと名古屋人としてはやるせない気持ちにもなってくる。
翌朝、日の出前に飛び起きた。こんな大自然の中にいると、寝ているのがもったいない。早速、旅館の裏手から始まる旧飛騨街道の面影を訪ねてみることにした。
山道は西野峠を経て、役場方面へと抜けている。初めはゆるやかだったが次第にけわしくなり、しばらく歩くと額に汗がにじみ出てきた。森には低くもやが立ち込め、あたりはしーんと静まり返っている。
西野峠を登り詰め右に折れれば、標高1429メートルの城山に出る。飛騨街道をわずかに離れたばかりなのに、こちらでは小鳥がやかましいほどさえずっていた。突然、頭上でガサガサという音がしたかと思うと、何と20センチほどもあるリスが枝から枝へと渡り、巧みなサーカスぶりを披露してくれるのだった。
城山の頂上に着くころ、山にさえぎられていた朝日がやっと顔をのぞかせた。頂上からふもとの村々はよく見渡せるが、肝心の御岳は厚い雲にすっぽりとおおわれたまま。大きな松のむき出しになった根っこに腰を下ろし、刻々と変化する雲の表情や下界の景色にしばし見とれていた。
宿に帰って温泉にはいった。1時間ちょっとの散歩だったが、結構いい汗をかいた。こんな後で飲むビールは最高にうまい。
宿の女将に「リスを見た」と言ったら「山へ行ったのか」と驚かれた。そして今度は次の言葉にこちらがびっくりさせられた。「リスどころか、ここにはクマも出たりするから危ないですよ」。
開田村は木曽馬のふるさとでもある。郷土館やそば道場の近くに、牧場「木曽馬の里」があった。ここでは現在30頭ほどが飼育されており、訪れた観光客の人気を呼んでいる。
木曽馬は胴長短足、ずんぐりむっくり。どことなく愛敬を漂わせているが、それはおとなしい性格からも来ているか。子連れの馬が観光客から手渡しで草をもらい、牧場の近くには乗馬コースも設けられていた。
木曽馬は〃朝日将軍〃木曽義仲の愛馬だったし、尾張藩も御岳山麓に牧場を持っていた。従順で粗食にも耐えるところから、農耕馬や運送馬としても活躍した。しかし、近代にはいると大型の外来馬がもてはやされるようになり、農作業は機械化されて次第に絶滅の道をたどることとなった。
いまいるのはかつて見られたような純血種ではない。が、木曽馬を一頭でも増やしたいという保存会の人たちの努力が実り、いまでは全国合わせると100頭ほどにもなるとか。最後の純血種と言われた「第三春山号」は先に見た郷土館に剥製で展示されていた。
牧場のある場所からも、御岳山がきれいに望めた。大自然の中で木曽馬が悠々と草をはむ姿は雄大でのどかだった。そして牧場の周りには一面のそば畑が広がっている。
開田高原はどこへ行ってもさわやかですがすがしかった。その秘密の一つが看板を規制し、建物の高さや色、面積などを制限する開発基本条例にあった。何だか景観に対する配慮の必要性を、ここ開田村に来て教えられたようでもある。
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