マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
静岡県富士川町 |
日本一の富士山を目の前で見てみたい 富士山、富士川と共に生きる町
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サービスエリアに夢ふくらむ
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“迎賓館”古谿荘にて |
町は西を山に、東を富士川にはさまれて、南北に細長く延びている。こうしてぶらぶら散歩していると、いくつもある坂が変化に富んだ空間を作り上げていることに気付く。川沿いの公民館の裏手には昭和天皇の歌を記した歌碑公園があり、すぐ脇の堤防道路にはかつての街道を物語るかのように美しい松並木が続いていた。
川に沿って1キロほど上ったところに、渡船のための「上り場」常夜灯と富士川開削に貢献した角倉了意を讃える記念碑が並んであった。先ほどの古谿荘庭園からといい、いまいる富士川河畔からといい、一目だけでもどかーんと居座った富士山を見てみたいものだが、それがまったく見られない。曇天とはいえ、それほど悪い天気でもないのに、その姿を見せてはくれないのか。
朝起きるとすぐにカーテンを開けたが、今日もやっぱり見えそうにない。昨日と同じく、どんよりとした曇り空。富士市で泊まったホテルのフロントマン氏は「風さえあれば見えるんですけどねえ」とすまなさそうな顔をした。
今日は町の上流部を中心に見て回るつもりだ。なんでも「俵石」という奇岩がこの町で出るとか。それは大昔、富士山の噴火で流れ出した溶岩が冷やされて収縮、五角形または六角形の柱状節理となったものらしい。
バイパス沿いに見られると聞いて探したが、それらしいものは全然見当たらない。通りすがりのお年寄りに聞くと「ここにはもうないずら。20メートルぐらいほじくって、長い柱のような石を切り出したもんだよ。いまはみんな埋め戻しちまったよ」とのこと。道理でいくら探しても、見つからないわけだ。
ウロウロしていたとき「血流川」という川に出くわした。名称の由来を尋ねると「昔、武田信玄が攻めてきてさ、ここらあたりで合戦になったんだってさあ。沢山の人が死んだっちゅうよ。川は血で染まったっちゅうよ」。山梨の甲府は遠いものとばかり思っていたが、富士川沿いに南下してくれば、わずか5、60キロの距離でしかない。
あいにくここに俵石はなかったが、すぐ近くの富士川沿いで見られるとか。蓬莱橋を渡って対岸の富士宮市側から見ると、川ぶちに霜柱状に黒い石が並び断崖となっていた。その一つ一つを眺めていると、なるほど、俵を縦にぎっしり並べたようにも見えてくる。
この石は記念碑などに利用されることが多いらしい。昨日見たJR富士川駅前にあるキウイパークの巨大な石柱や一里塚の名称碑、歌碑公園の歌碑などに使われているのも、言われてみればみなこの俵石だった。ちなみに、キウイフルーツは町の特産でもあり、目下、キウイワインを新商品として売り出し中のようである。
さらに奥へ行った第二小学校近くの小公園。その片隅にお目当ての「手つなぎ地蔵」はあった。地蔵を型取った2人の姉妹が手をつなぎ、やさしいまなざしでたがいに見つめ合っている。
昭和15年8月26日のこと。高岡姉妹は父に代わって郵便局に勤めていたそうだが、その帰り道、有無瀬川を渡ろうとして濁流に飲み込まれてしまった。地蔵はこの姉妹を哀れんで建てられたもので、姉のふさはいまだ14歳、妹のシズエは11歳であった。
小道一本へだてた公園の外にも小さな祠があった。中をのぞき込むと、こちらには赤ん坊を抱いた愛らしいお地蔵さんが祭られていた。そして脇にある古木の根元には馬頭観音もあった。
その有無瀬川を渡った妙松寺にも足を延ばしてみた。石段を登ってゆくと、立派な山門が見えてくる。手前には桜の老木2本がまるで寺を守護する仁王像でもあるかのように枝を広げており、この桜が町の名木になっているそうである。
時間にまだ少し余裕があったので、野田山緑地公園に車を走らせた。先ほど出会った老人が真っ先にあげた町の名所がこれだった。いまはシーズンオフだが、春から秋にかけてはハイキングにキャンプ、バーベキューにとにぎわいを見せるらしい。
標高530メートルの金丸山の頂上部にはキャンプなどのできる芝生の大広場があり、付近には展望台やアスレチックなどの施設もあった。ここからは遠く駿河湾も見渡せるが、肝心の富士山はこのとき初めて山頂の一部を申し訳程度にうっすらと見せてくれた。それにしてもこんなに近くまで来て、ついにその雄姿を見ることができなっかたとは……。
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