マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
静岡県福田町 |
日本一“別珍とコールテンの里” 町のご自慢、高級メロンと特上シラス
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町は温室メロン発祥の地
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観音寺にあるカメの供養碑「亀塚」 |
太田川を越え、東側の福田漁港の方へ来た。ここでも見事なクロマツの砂防林が続き、その中を浜松と御前崎とを結ぶサンクリング・ロードが通っていた。こちらの林は「しおさいの森」と名付けられ、展望台や広場なども設けられている。
漁港には5、60隻の漁船が停泊していた。日本一のシラス漁の町だそうで、周辺にはその加工場も点在していた。海辺では強い西風を避けるようにして、釣り糸をたれる人たちの姿も見かけられた。
国民宿舎「ふくで荘」の北東近くに、左手に投網を持ち海を見つめるコンクリート製の像がある。これは昭和7年に建てられたもので“砂防堤生みの親”伊藤五郎翁を顕彰したものだ。その前には畑と海とを区分するかのように、緑濃い松林が東西に延びている。
五郎は安政5年(1858)にこの地で生まれた。当時はまだ海岸と陸地との部分がはっきり分かれておらず、海辺近くは荒れ地のまま放置されていた。せっかく開墾して作物を作っても、台風のときなどは高波に洗われて根こそぎ持って行かれてしまう。
堤防を造るのは村人たちの悲願だったが、それに要する莫大な費用も人足もなかった。五郎もこれには頭を痛めていたが、あるとき、ふといいアイディアを思い付いた。砂を吹き飛ばす強い風を利用すれば、人手に頼ることもなくできるのではないか、と。
早速、堤防を造る位置にワラやヨシなどで垣根を作り始めた。砂がそこに吹き寄せられて高くなるから、それを繰り返してゆけば堤防になるというわけだ。が、実行に移してみると肝心の垣根が吹き飛ばされ、また、そうでなくても、押し寄せる大波には打つ手がなっかた。
「あんなことやったって、海が荒れたらひとたまりもない」
「100年繰り返しても、できるもんか」
村人たちの目は冷ややかだった。それでも五郎は強い信念のもと、黙々と作業に取り組んだ。そうした努力のかいあって少しずつ積み重なり、村人たちも1人2人と作業の輪に加わるようになってきた。
大正10年ごろには立派な堤防が形作られるまでになった。そこに現在みられるような松が植えられ、昭和23年には国からも補助金が出るようになった。しかし、五郎は美しく育った松林を見ることもなく、大正11年、64歳で亡くなっている。
像は台座の上に建てられており、高さは4、5メートルほどある。これが作られた昭和7年当時でも松はまだ背が低く、この高さから海がよく見えたそうだ。左手に持つ投網は五郎が晩年近くの川で楽しみとしていた遊びの一つだったそうである。
海へ注ぐ太田川は2級河川である。が、それなのに河川敷の広いのには感心させられてしまう。堤防の内側には整然とした田んぼが広がっており、こうした形で利用されている河川敷はあまりないのではないか。
その堤防近くの田んぼで元島遺跡という、弥生中期から戦国後期に至る複合遺跡が発見された。太田川の改修工事中に見つかったそうで、訪れてみるとその跡には水がたまって池となっていた。発掘作業は平成6年から3年がかりで進められたとか。
この発見で大きな話題を呼んだのは、木製のイカリが出土したことである。イカリは片仮名の「レ」の字の形をした木でできており、長い方が1.25メートル、短い方が0.65メートルほどの大きさ。重りとして長い方の柄に石をくくり付けて用いていたらしい。
こうした木製のイカリが存在したことは絵画や絵巻物などに描かれた絵で分かってはいた。が、その実物が出土したのは全国でも初めてのケースだそうで、学会などではこの町がにわかに注目されることになった。これと関連して同時代と思われる船の部材なども見つかっており、戦国時代の船の構造を知る上でも興味深い資料を提供することとなった。
「この遺跡から当時の村の様子がかなり分かってきました。福田は明治のころまで遠州灘海岸で数少ない港として繁栄してきましたが、この遺跡にクリーク(溝)などが造られていたことも確認されており、すでに港の一部としてにぎわいを見せていたようです。ここに水揚げされた物資は袋井や掛川方面へ運ばれていったものと思われ、物資の集散基地として早くから開けていたことでしょうね」
同町では明らかになる町の歴史に大きな期待を寄せていた。120軒にも及ぶ戦国時代の建物跡や瀬戸、美濃、さらには中国産の陶磁器やカメ、ツボなども多く見つかっているという。足元からの遺跡発見によって、町の人たちはわが町の歴史ロマンに大きな夢をふくらませている。
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