マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
静岡県金谷町 |
大井川に面した旧東海道の宿場町 名にしおう茶どころ、SLの走る町
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大茶園見つめる“茶祖”栄西
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茶畑の広がる金谷の町 |
一角に造られた牧之原公園。この高台からは金谷の町並みや大井川、さらには駿河湾までもが一望できた。園内には鎌倉時代に宋(中国)から茶をもたらした臨済宗の開祖・栄西の巨大な像が立ち、近くには茶業記念碑や大井川鉄道開通碑、町村合併記念碑などもあった。
先ごろ、このすぐ脇に博物館、茶室と庭園、商業館の三つから成る「お茶の郷」が誕生した。中核の博物館では牧之原開拓の歴史から、世界各地のお茶までが紹介されていた。「花より団子」とはうまく言ったもので、最後に訪れることになった商業館の特産品売り場“ゆめ市場”は買い物をする人たちでいっぱいだった。
博物館と商業館の背後には小堀遠州ゆかりの茶室と庭園が復元されていた。茶室は京都伏見奉行の屋敷にあったもの、庭園は後水尾上皇の御所(仙洞御所)にあった東庭をもとにしたとか。由緒ある茶室で抹茶をいただいていると、日本の伝統文化のすばらしさを改めて教えられるようでもあった。
金谷は押しも押されぬお茶の町。お茶の郷の前にも広大な緑のジュータンが広がっていた。その後、車で町の中を走ることになったが、あちこちでお茶の販売所や製茶工場などを見かけた。
お茶の郷から南へ5〜600メートルほど行ったところで「国史跡諏訪原城跡」の看板を見つけた。駐車場まであるところを見ると、訪れる人もそれなりにいるのか。車を捨て「順路」の指示に従って、細い道を城跡へと分け入った。
なるほど、よく遺構が残されている。歩を進めるにつれて空堀や曲輪、馬場跡などがあった。三之丸と二之丸は茶畑にされ、雑木林となった本丸の一角には「天守台地」と記された標識も立てられていた。
先ほどから夏草の周りをチョウチョやトンボがしきりに飛び交っている。木々のこずえからは「かなかな」「かなかな」とせわしげに鳴くヒグラシの声。まだ暑さの真っ盛りだというのに、城跡には早くも秋の気配すら漂っていた。
この城は武田氏が徳川氏との対立の中で築いたもの。永禄12年(1569)信玄によって築城され、天正元年(1573)その子勝頼が補強、ここを足場に高天神城(小笠郡大東町)に進撃した。その後、この城を巡って激しい攻防が繰り広げられることとなったが城方の守りは固く、家康は浜松から出陣して自ら陣頭で指揮、兵糧攻めや坑道作戦などでようやく落城させている。
本丸の周縁に沿って下ってくると、林の中に小さな神社があった。諏訪神社とあり、武田方の守護神だったか。気がつけば、裏から見てきたわけで、こちらからの道が大手口だった。
1時間弱の散策で思わぬ歓迎を受けていた。手足がやけにかゆい。見るとヤブカに随分ごちそうを振る舞ってしまったようだが、まあ、いい城跡を拝見させてもらったことだから、それも拝観料か入場料の代わりと納得するか。
茶と並ぶ金谷のもう一つの顔が宿場と街道である。「越すに越されぬ」大井川の西の宿駅として、ここには本陣や脇本陣をはじめ旅篭、茶屋などが建ち並んだ。商店街をぶらぶら歩いていると「金谷宿」「本陣跡」「一理塚跡」などと書かれた案内板などに出くわすことになる。
金谷駅近くの金谷坂には430メートルにわたって、昔の街道のように石が敷き詰められていた。平成3年、町民有志約600人が参加して復元、その活動は「平成の道普請」と讃えられているそうだ。石畳だから滑らないということからか、かたわらに「すべらず地蔵」という何ともユーモラスな名前のお地蔵さんも祭られていた。
東海道は大井川河畔の金谷宿から、西は山の手の日坂宿(にっさか・掛川市)へと通じていた。なぞるようにして車で走ってみると、思っていた以上に急坂の連続だった。だれが言ったか「遠州の小箱根」という表現も、あながちオーバーなものではない。
こんな険しい道だから中間の菊川には“間宿(あいのしゅく)”が設けられ、そこには現代の休憩所「菊川の里会館」も建てられていた。普通、間宿は2宿の距離が3、4里になると置かれたものだが、ここ金谷と日坂とは1里ちょっとしかない。いかに難所であったかが、これによっても分かるようだ。
さらに進むと金谷と掛川の境目、小夜の山中(さよのやまなか)へ出た。山賊に殺された妊婦の霊が石に宿り、夜な夜なすすり泣いたという“夜泣き石”の伝説。その石は国道1号沿いの高台にあり、ふもとのみやげ物屋にはショックで生まれた赤ん坊を育てたという「子育飴」も並べられていた。
東海道を駆け足で見て、町の食堂で一休み。居合わせた老人は「本物を見てきたな」と言って面白い話を披露してくれた。まさか夜泣き石が二つもあったとは?
「それが本物さあ。ほんとは峠の上の元の場所にもあるけーが、実はそっちがニセモノちゅーか2代目なんだな。明治のころ、東京の博覧会に出したけーが、その帰りにどっかへ行っちゃってさ、困ったお寺側じゃ新たに作ったさ。ところがその後になって本物が出てきて、いまの国道のわきに置いたというわけだよ」
とういことは、本来の場所へは行っていなかったわけか。道理で赤ん坊を育てたという和尚さんのお寺が付近に見当たらなかったわけである。
「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、14の歳から親に放れ、身の生業(なりわい)も白波の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず……」
ご存じ「白波五人男」稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろ)いの名場面。“大盗賊のドン”日本駄右衛門がタンカを切る。その首塚が新金谷駅近くの住宅地の中にあった。
解説板には「生まれは定かでない」とあったが、尾張藩足軽の小倅である。本名浜島庄兵衛、あだ名は日本左衛門(歌舞伎では駄右衛門)。父の浜島友右衛門は名古屋城と堀一つ隔てた、その裏手に住んでいたこともある。
尾張藩は江戸との連絡のため、七里ごとに飛脚を置いていた。“御七里役”はここ金谷にもあった。その息子の左衛門が長じて手下どもを引き連れ、義賊を気取って堂々と荒し回ったというのだから恐れ入る。
筆者が思うに、おそらく彼は将軍吉宗と対抗した尾張7代藩主・徳川宗春にあこがれていたのではないか。質素な大名行列ばかりが通過する中にあって、宗春の行列だけは派手でまばゆかった。少年の目にはその格好よさが焼き付いていたにちがいない。
大井川が氾濫すれば、川は渡るに渡れない。宗春もこの金谷の宿で1週間も足止めをくったことがある。新金谷の駅前にはそんな大井川の渡しの様子を伝える「川越し博物館」もあったが、小さいながらもなかなか見応えのある施設だった。
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