マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
静岡県韮山町 |
温泉もある、イチゴ狩りもできる それでもやっぱり主役は歴史
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流人頼朝、蛭ケ小島へ
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頼朝が流された蛭ケ児島の地 |
海でもないのになぜ島と言うのか、前々から不思議に思っていた。が、現地に立ってみて分かった。昔は狩野川がこの盆地内を幾筋にも分かれ、あちこちに中洲を造り出していたのだ。
彼が来たのは14歳のとき。20年後に旗揚げすることになるが、その教育に当たり後に挙兵をすすめたのが文覚(もんがく)上人だ。彼が修行していたという毘沙門堂は町の北東、奈古谷の山中にあり、同地にあった“七つ石”の一つ「護摩石」には上人がその上で護摩を焚いたとの伝説も残されていた。
文覚上人を精神的な支柱とするなら、軍事面での支援者が北条氏である。そのふるさとは町の西方、狩野川のほとりにあり、蛭ケ小島とは距離にして2キロほどのところ。住宅地の中に妻となった政子の産湯の井戸があり、近くの願成就院や高照寺には北条一族の墓などもあった。
初代北条時政は平氏の出で、本来は監視する立場にあった。ところが、娘の政子が頼朝と結ばれ、幕府の執権として天下へ躍り出すことに。ちなみに、NHK大河ドラマで話題になった北条時宗はその8代目に当たり、高照寺は時宗の子供が建てた寺でもっあた。歴史は男の闘いの中から作り出されてきたが、彼らを動かしたのはいつの時代も女たちであった。
鎌倉から室町へ、そして戦国へ。時代はさらに流れてゆく--。
何でもないように見えた産湯の井戸脇の広場は堀越御所の跡だった。8代将軍足利義政は弟の政知(まさとも)を鎌倉へ送り出すが入るに入れず、北条氏の庇護のもと、ここ堀越の地を仮の住まいとすることになった。それが2代、30数年も続く事態になる。
混乱の中から新たに登場してきたのが戦国大名にのし上がる北条早雲だ。興国寺城(沼津市)にいた彼は堀越御所を攻め、その家臣の築いた韮山城を拠点にする。そして、いわゆる“後北条氏”5代約100年の基礎を築くことになるのである。
その城跡は蛭ケ小島に近い、町の中央部にあった。標高にしてわずか50メートルほどの小山で、10分も歩けば天守台の跡に立てた。早雲は小田原を手に入れてからもこの城を本拠とし、永正16年(1519)にここで亡くなっている。
天正18年(1590)、秀吉の小田原攻め。このとき韮山城は小田原城主だった北条氏政(4代)の弟氏規(うじのり)が約3000の兵で守っていた。攻める秀吉勢は織田信雄(のぶかつ)を大将に、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷などに率いられた4万にも及ぶ大軍である。
しかし、城兵たちの士気は高かった。10分の1の寡兵ながら、100日間も持ちこたえた。氏規は味方の諸城が次々と落ちてゆくのを知ると、家康の陣へ投降して自らの手で戦いの幕を引いている。
天守台からは白雪を抱く雄大な富士が眺められた。町の様子もここからなら手に取るように分かる。大軍に包囲されたというのがうそのように、周りにはのどかな光景が広がっていた。
城山のふもとにある大きな池も、もとは堀の役目を兼ねる防御用のものだったか。いまその周囲は城池親水公園として整備され、水面では多くのカモたちが羽根を休めていた。散歩中に偶然出会ったのが郷土史の研究家で、町の文化財審議委員でもある大原美芳さんだった。
「韮山城は難攻不落とされてきました。(北東のひときわ高い山を指して)あれを天狗岳と言い、あそこにも砦が築かれていた。城はいくつもの砦に囲まれるようにしてあり、守るに易く攻めるに難しい造りでした」
大原さんには『江川坦庵(たんなん)と砲術』という著書もあった。坦庵こと太郎左衛門関係の古文書を丹念に読み解き、大砲の製造方法や性能などを明らかにした貴重な研究書だ。その太郎左衛門の屋敷も池の近くにあった。
同家は保元の乱(1156)後に大和から落ち延びてきたという歴史のある家で、頼朝にこの地を安堵され、先の合戦の折も家康の取りなしで攻められていない。江戸時代の後期、韮山の代官となった太郎左衛門はその36代目に当たっている。同家の屋敷にはいまもご子孫がお住まいだが、国の重文にも指定された豪壮な母屋などは一般に公開されていた。
裏門脇に建てられていた記念碑をのぞき込むと、聞き慣れない「パン祖」の文字。全国の製パン業者などが寄贈したもので、彼は保存食や携帯食として西洋のパンに注目、パン食を普及させた功労者でもあったとか。しかし、当時のパンは乾パンのように固く、あまりおいしいものではなかったらしい。
裏門を出たところに郷土資料館があった。やはりここの目玉は太郎左衛門に関係したものだ。日本のレオナルド・ダ・ビンチとも称される人だけに、反射炉の建設や砲術の研究、洋式帆船の建造、種痘の奨励、兵農制度の発案など、実に多方面にわたる業績が紹介されていた。われわれも親しんできた「気をつけ」「前へならえ」「右向け右」などの号令も、彼がオランダ語から翻訳したものだったとか。
近くの韮山高校の校庭には胸像が飾られていた。ちょんまげ姿で洋服を身にまとい、目はしっかりと見開いている。特徴とされたひときわ大きな目には新しい時代の波がはっきりと見えていたにちがいない。
韮山と言えば反射炉を真っ先に思い浮かべる人が多いのではないか。この町を通り過ぎようとする観光客の多くも、ここだけにはしばし足をとめてゆく。反射炉がこうした完全な形で残されているのは、世界中でもここ韮山だけだそうな。
「どうしてこんな煙突が反射炉なんだよ。どこが反射するんだ」
「おいおい、この人の前で反射、反射と言っちゃまずいよ」
前を歩いて行くのは一杯機嫌の中年男性グループ。言われた当人は「これが反射炉じゃ」とおどけ、てかてかの頭をたたいてみんなを笑わせた。その巨大な施設は炉の天井に熱を反射させ、下に置かれた銑鉄を溶かす一種の溶鉱炉だった。
ペルーが来航した嘉永6年(1853)太郎左衛門は幕府を説き伏せ、オランダの資料をもとに、下田で反射炉の建設に取り掛かった。が、その下田が開港されることになり、現在の地に移し替えられた。彼は事業半ばの安政2年(1855)に54歳で亡くなるが、その遺志は息子たちに引き継がれて同4年に完成している。
裏の方へ回ると、ここで造られたという大砲も復元されていた。以前訪れたときは確かコンクリート製のものだったが、いまは本物そっくりに作り替えられていた。太郎左衛門は品川沖に台場(砲台)を造営しているが、反射炉はそこへ備え付ける大砲を鋳造するためのものだった。
平日なのに観光客が次々とやってくる。そんな一団をつかまえては、売店の女性が案内を買って出る。立て板に水の名調子で解説してゆくが、果たして店の中にまでうまく誘導することができるのか。
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