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その日その時
――舟橋武志の店番日記(その3)

めざすはカリスマ店員!

 

●某月某日

9月5日(日)に友人らと青春切符で比叡山へ。ところが山科で湖西線に乗り換えるべきところを、リーダー役のN氏がうかつにも京都行きに案内してしまった。急きょ京都見物ということになり、東西両本願寺や東寺を案内することになった。

さて、昼食後は三十三間堂と国立博物館にでも……と考えていたら、だれかが「比叡山へ行くと言って出てきたもんで、やっぱり比叡山へ行きてゃあ」と言い出した。これには賛成者が多く、また戻って比叡山へ。ケーブルカーに乗ったのは初めてで、これがなかなかよかった。

だれかが家へ電話をすると、向こうは土砂降りだとか。この日は日本中が傘マークで、来るときには白い目でみられたものだが、京都地方はどうにか曇天でもってくれていた。やはり日ごろの心掛けがよかったのか。

その帰り。10何人もいたが、ただ一人S氏だけが岐阜駅で停車中、看板の揺れているのに気付いていた。午後も7時ころのことだったらしいが、一宮に着くと地震で話題になっていた。そして、夜中の長くて激しい揺れと来た。

ノーブレーキで追突され、あの震度18の衝撃がいまでも忘れられない。それに比べれば地震など、たかが知れたもの。東海地震が来ても動じない、それくらいの妙な自信はある!?

●某月某日

ご注文いただいた本を、うっかり別の人の包みに入れてしまったらしい。昨日まであったはずなのに、どこをどう探しても見つからない。とうとう「まだか」との催促をもらってしまった。

こちらは古本屋を必死で探していた。何軒か当たればこの本なら、70%の確率で見つけ出せるはず。返金するのは簡単だが「もう2、3日待ってもらえれば」と謝る。

鶴舞、上前津の古書店になかったので、市内に点在する何店かにも当たった。が、どこにもなく、予想していたよりも困難な作業となった。帰りに小牧方面へ大回りしてみることにしたら、何と「この店では……」と思って入ったところにその本があった!

帰ったらおわびの手紙を書こうと考えていた矢先だっただけに、このときのうれしさといったらなかった。当方の値段より少し高かったが、この際、そんなことはどうでもいい。

電話をするとすごく喜んでもらえた。「蛇(じゃ)の道はヘビですよ」。これくらいのことは当然といった調子で話したが、本当に危ないところだった。

●某月某日

NHKや名古屋テレビで忠臣蔵が放送されている。年末の恒例行事ではあるが、ついつい見てしまう。ストーリーは分かってはいても、やっぱり面白い。

そうした忠臣蔵を見せられるにつけて思い出すのは、一昨年に小社から出版した忠臣蔵の本だ。古文書を教えてもらっている鬼頭勝之先生が大須観音の骨董市で『忠義画像』という古書を発見され、それがこれまでに見つかっているものの中で最も古い46士を描いた姿だったことが判明した。その復刻に解説を付け平成14年12月14日に『忠臣蔵外 伝「忠義画像」を読む』と題して200部出版した。

新聞に取り上げてもらえれば、流通ルートはなくてもある程度は売れる。彼らの討ち入り当時の装束といい、各自が手にした武器といい、注目されるべき点は多くある。そんな期待をもって地元の数社に送っておいたが、残念ながらどこの社にも紹介されることはなかった。

その鬼頭先生からは日露戦争当時のロシア軍総司令官、クロパトキン将軍の書いた『日本陸軍秘密研究書』という訳文も預かっていた。小社としては無縁の出版分野でそのままにしていたが、折しも開戦100年目ということで今年の5月に100部印刷した。これは幸運にも毎日新聞の全国版で紹介され、これまでに半分ほどが出ていった。

話題性でははるかに忠臣蔵の方が優っているはず。しかし、他力本願だけに、思うようにはかない。

●某月某日

届いた清酒がぬれている。ビンを透かして見ても、ヒビらしいものはない。試しに手のひらでなぜてみたらチクッとし、悪いことに小さな破片が生命線に沿うように刺さってしまった。

幸い、抜き取ってバンドエイドで事なきを得たが、ビンのセンを抜くと同時にピシッとヒビが入った。が、これぐらいのことで捨ててしまうのはおしい。何しろ、送られてきたのは純米酒のしぼりたて生一本だ。ガラス片は沈むだろうから「せめて上の方ぐらいは」とも思ったが、先ほど血を見ているだけに「もしや破片を飲んでしまったのでは」と思うとそれもできなかった。

翌日、宅配業者に電話をしたら、すぐに取りに来てくれた。ヒビは入っていてもにじみ出るくらいで、その時点でもまだ5分の2ほどは残っていた。蔵元から新たに替わりの品が送られてきたが、割れてなくなってしまったわけではなく、飲み残しを返してきたのではないかと疑われそうな気がした。

これで終わればまだよかったが、4日後に病院へ行くはめになってしまった。ガラスが中にまだ残っていたらしく、ドクドク脈を打ち出し、押さえるとチカッとして血がにじんでくる。レントゲンを撮られ、何とか抜いてもらったが、思わぬ出費を強いられてしまった(上等の酒が2本は飲めた)。

蔵元からは悪質なクレーマーと疑われかねないし、こちらがそんな事態になっているなどとは思ってもいまい。おたがいに気まずい思いをし、うまいはずの酒がまずかった。

●某月某日

道路端で「シートベルト」と書かれた板を持つ人たちを見かける。ボランティアでドライバーに交通安全を呼び掛けている人たちだ。そのたびごとに「平日のこんな時間に」と尊敬のまなざしで眺めてきた。

これがびっくり仰天だった。彼らは免停を食らった人たちで、講習を受けた後「社会参加活動」としてやらされていたのだ。自分が交差点内駐車禁止違反を2回受けてしまって免停となり、先日、それをやらされてきた。

免停は免許を取って初めてだが、こんな罰則があったとは。受講者には二つのコースがあり、「運転演習」の方だと4000円余分にかかる。たとえさらし者になってもいいから、安い「社会参加活動」のコースを選んだのだった。

これまでずっーと尊敬のまなざしで見てきたが、実態を知る人は明らかに軽蔑している。乗合バスの運転手はこれを見て「今日は6人か」と思ったことだろう。ドライバーの中には手を振っていく者もいたが、内心「コイツら、4000円をケチりゃがって」と思っていたにちがいない。

このシゴトは「シートベルト」と書かれた板切れを持って、ボケーッと立っていればよいというものでもない。1時間ごとにシートベルトをしていなかった車と、ケータイしながら運転していた車の台数を報告しなければならないからだ。ケータイはまれだったが、シートベルトをしていない車の多かったこと。

ぼくが追突されて命拾いしたのはまさしくシートベルトのおかげだった。多少のわずらわしさはあったとしても、これだけは体と心にしっかり締めておきたいものである(あまり大きなことを言えたものではないが)。

●某月某日

どうして学校帰りの児童が誘拐されたり、校内へ変質者が紛れ込むような、おかしな時代になってしまったのか。いま一般の人が学校に入るのは至難の業で、警戒しなければならない学校もまた気の毒である。

店を持つ前までは学校を回り、職員室で本を売り歩いていた。教頭先生にあいさつすればすぐに許可され、顔なじみともなればそれすらも必要なかった。学校にはネクタイだのクツだの様々な業者が訪れ、先生方からは総称して「かつぎ屋」とも呼ばれていた。

当の先生方も忙しく、案外、重宝がられていた。ストッキングを専門に売るおばちゃんなどは鮮やかなもので、この人が来ると女性の先生方は待ってましたとばかりに買い込んでいた。靴下おばちゃんといっしょになると急に相手にされなくなってしまったが、こうした業者たちにとっては学校がいいマーケットの一つでもあった。

親しくなると他校の先生を紹介されたりもし、それを口実に難しいところへの出入りもできるようになった。ときには「社会科の先生の集まりがあるから、会場へ本を持っていくといいよ」と教えられたりもした。先生方は真面目でやさしく、売りやすい人たちでもあった。

学校回りは20年以上もしていない。もう「かつぎ屋」の入り込めるところではなくなってしまっているだろう。校門を閉め切ったり、登下校をパトロールするニュースなどに接すると、どうして学校の環境がこんなに殺伐なものになってしまったのかと考え込まされてしまう。

 

■その日その時 ――舟橋武志の店番日記(その3)
■店長あたふた日記
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