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すべては自費出版から始まった
自信があるなら、独力で世に問え!

角川版『外来語辞典』生みの親

 荒川惣兵衛という人をご存じだろうか。角川書店版『外来語辞典』の著者と言ったら、分かっていただける人も多いかもしれない。名古屋が生んだ隠れた偉人の一人だ。

 辞書には外来語の一語一語に荒川氏ならではの解説や用例、引用文献などが施され、これを愛用しているファンはいまも多い。昭和42年に角川書店から発売されるや、金田一京助氏は「余人の企て得ない莫大な力作」と絶賛した。ほかにも「外来語のエンサイクロペジア」(荒垣秀雄氏)、「真の意味の労作」(伊藤整氏)、「辞書の形をかりた外来文明史」(河盛好蔵氏)、「近代語の注釈に欠かせない辞典」(吉田精一氏)など、そうそうたる人たちから惜しみない賛辞が贈られている。

 このように高い評価を得た辞書も、いまでは絶版となってしまった。古書店をうろついても、まずお目にかかれない。探している人の間では中国で海賊出版として出回ったこともあるらしく、「向こうで当たった方が速い」とまでウワサされているほどだ。

 荒川氏はこの辞書を独力で作り上げた。生前、自著を振り返り「滝沢馬琴の『八犬伝』30年、ゲーテの『ファスト』40年を越す、実に50年の歳月。まことに一生をかけた産物である」と語っている。外来語研究にかけた執念のほどがしのばれてくる。

 荒川氏はまた反戦・反骨の人でもあった。戦時中、英語が敵性語として排斥され、学校内で将校の目が光る中にあっても、教壇から堂々と「こんな戦争をやっても勝てるはずがない」「日本は必ず負ける」などと言い続けた。外国の事情を熟知していた人だけに、いかに無謀な戦いであるかが分かっていたのであろう。

 昭和20年9月、突如、教壇を去った。それまで軍国主義を唱えていた他の教師らがてのひらを返すように民主主義を口にし出したときだ。このあたりの身の処し方も実にいさぎよい。

 戦争は研究の上にも大きな被害をもたらしていた。これまで書きためてきた原稿(200字詰め)20万枚を疎開先で一夜にして灰にしてしまった。戦後は家族を養うためにペンをクワに換え、なれない手つきで田畑を耕作する日々が続いた。

 晩年、荒川氏は戦後10年の空白時代を振り返り「好きな研究を生活のためとはいえ中断せざるを得ず、自分の人生にとっては痛恨の極み」と言い切っている。ご子息の大(おおら)さんの話によると「世の中が落ち着いて研究に没頭できるようになったときが父の一番輝いていた時期。そこへはたとえ家族でも近付くことを好まなかった」そうである。

 何事においても大事をなさんとすれば、それなりの覚悟が必要になってくる。ましてや継続してゆくのは並大抵のことではない。荒川氏がたぐいまれな辞書を独力で編み出せたのも、苦しみも楽しみに変えてしまうしなやかな思考があったからこそに他なるまい。

 旧制小牧中学で教えを受けた一人で、文芸誌『駒来』の編集人百瀬正昭さんはその生き方について「他人の目には偏執狂とさえ映ることもあった。先生を知ろうという者にとって『狂』は価値あるテーマとなる」と、その一途な姿勢に脱帽している。

 そうした厳しさも、身近で見続けてきた大さんにとっては、また別だったようで「(研究の)仕事をしているというよりは、幼児がお気に入りの絵本とでも興じているかのように、われを忘れて楽しんでいる雰囲気だった」「自分の好きなことができ、毎日が楽しくてたまらない。これが人から頼まれ、給料をもらってやらされる仕事だったら、とても続けられたものではない……よくそんなことも言っていました」と述懐されている。

  ごますりと ごきげんとりが きらいゆえ
         みなさんがたに きらわれたでしょ

 これは荒川氏の辞世とも言える一首(平成7年没、96歳)。漢字を排斥したわけではないが「漢字亡国論」というエッセイもある。また、ひらがな・かたかなを多用し、横書きの推進論者でもあった。

故郷にプレゼント『ナゴヤベンじてん』

 荒川氏のすごいところは当時、だれも為し得ない研究をしながら、その原稿を出版社に売り込むなどのそぶりさえ見せなかったことだ。ここでも「わが道を行く」精神は健在だった。昭和5年、それまでの成果を『日本語となった英語』と題して自費出版している。

 本は研究社のスタッフの目にとまり、翌年、同じ題名で改訂版として出された。荒川氏はまた詩や俳句を愛する粋人でもあったが、自費での出版はこちらの面でも相次いでいる。

 そうしたものも含めて主な著書を拾ってみると『外来語学序説』(昭和7年)、『荒川美灰俳句選集』(同8年)、『こくごこくじせいさくろん』(同16年)、『英語中のあいまい語法』『あらかわそおべえ詩歌集』(同37年)、『昭和の外来語』『科学と宗教』(同45年)などがある。

 この間、本命の外来語研究はさらに進み、昭和16年、富山房からその先駆けとなる『外来語辞典』が出版された(岡倉賞を受賞)。研究の復活した昭和30年には弘文堂のアテネ文庫として、さらに昭和42年には収録語数を大幅に増やして角川書店から出版され、『外来語辞典』の名は不動のものとなった。

 自分の書いた原稿がなかなか認められず、出版されないことを嘆く人は多い。もしも本当に自信があるものなら、嘆いている前に自らの手で世に問うべきではないか。見る人は見ている。荒川氏がその好例である。

 氏の自費出版の一つに『ナゴヤベンじてん』があった。ぼくがこの存在を知ったのは比較的最近のことだが、奥付の発行は昭和47年となっている。図書館で初めてこの本と出会ったとき、その緻密な作りと5000語にも及ぶ収録語数の多さに感心した。昭和40年11月に初稿ができ、同46年12月に校了とある。

 大さんの話によると「角川版『外来語辞典』が出版されて一息つき、あり余るエネルギーを名古屋弁に振り向けたのではないか」とのこと。「おやじは言葉に対する愛情を人一倍強く持っていました。特に日常的に使っていた名古屋弁がどんどん消えていくことに強い危機感があったようです」。

 荒川氏はその序の中で「方言は、われらの生活そのものであり、いのちそのものであり、こころそのものなのである。じつに、方言は、ことばというよりは、むしろ血であり、肉である」と書いている。

 昭和40年ごろ、長年の酷使がたたったのか、眼底出血で両目をわずらい、細かい字が読めなくなってしまった。そうした中での苦しい編集作業だった。序の末尾で「げんこうも、ゲラずりもわたくしのめではよめなかった。それで、すべて、つま雪子のたすけをかりねばならなかった。いわば、本書は、つまのいのちをうばいとってできたものである」と結んでいる。

 本は300部作られ、周りの人と図書館に配られた。古書店でも見かけない、まさに幻とも言える書物だ。たまたまお客の一人が荒川さんの近くにお住まいであることを知って復刻を打診していただいたところ、快く了承してもらうことができて当店からこのたび出版となった。部数はあまり変わらぬ500部だが、これで必要とする人の手元へ流れてゆく道筋はできた。

 名古屋弁に興味を持つ者として、この本を再び世に出すことができてうれしく思っている。方言は年とともに消えていくだけに、これだけ律儀な作りの名古屋弁辞典は空前にして、おそらく絶後のものとなるだろう。荒川氏の偉大さに改めて感心しているところである。

 [付記] 復刻した本にはご子息の荒川大さんによる「父・荒川惣兵衛の後ろ姿」や百瀬正昭さんの「荒川惣兵衛先生のこと」、その他を新たに収録した。2415円。

 

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