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洗堰と新川 三川分流工事の名古屋版

 秋たけなわの十月の下旬、「新川みのじ会」のメンバーに連れられて、新川の上流部へサイクリングをした。新川は汚れた川というイメージしかなかったが、平田橋を過ぎたあたりから次第に透明度を増し、茂った水草の周りでは多くの小魚がたわむれていた。

 源流に近付くと今度はマガモやコガモにまじってオシドリも美しい姿を見せ、川岸にはアユを釣る人や投網を打つ人までもいた。驚いたことに、浅瀬でしきりに銀鱗をきらめかせていたのはアユの産卵しているところで、それもかなりの数に上っていた。

 メンバーの中から思わず「ここは名古屋の秘境だ」との声がもれた。川にはいまどきめずらしい板橋が架かり、刈り取られた稲はハサに掛けられて秋の日を浴び、市内とは思えないようなのどかな光景。すぐ近くを車でよく通っていながら、新川の源流部を訪れたのは初めてのことだった。

 この川の開削工事は天明4年(1784)に着手され、およそ3年をかけて完成している。平野を堀り割りした人工の川で、平田橋付近でやや折れ曲がってはいるものの、ほとんどが直線を引いたようにできている。同会の人たちの話によると、人工の川としては日本一の長さだとか。

 尾張北部から流れ出た大山川、合瀬川、地蔵川の三つの河川がかつてはこの付近で庄内川に注ぎ込んでいた。庄内川は名だたる天井川でしばしば氾濫し、大水ともなると三つの川は落ち込み先を失ってしまう。そのため近くにあった大蒲沼(おおがまぬま)をはじめとするその周辺部の低地帯は水浸しとなり、特に宝暦7年(1757)、安永8年(1779)、天明2年(1782)には大きな被害を出し、周辺各村の庄屋から尾張藩へ治水の請願が相次いで出されていた。

 九代藩主徳川宗睦(むねちか)は杁(いり)奉行水野千之右衛門(士惇・しじゅん)を普請奉行に起用、国奉行の人見弥右衛門のもとで工事に当たらせることにした。彼は新川中橋の架かる西、庄内川右岸の堤防を40間(約72メートル)にわたって半分ほど削り取り、そこに石篭を敷き詰めて出水時にあふれ出る水を北側へ排出するように工夫した。これが洗堰(あらいぜき)と言われるもので、車の通る道路となった堤防もここだけは一段と低く、出水時にはいまもその機能を果たしている。

 新川は千之右衛門がこのあふれ出た水の放水路として造った川だ。と同時に、庄内川に注いでいた大山川と合瀬川を新川に結び付ける川違え工事にも取り組んでいる(もう一つの川、地蔵川は戦後になってから新川に結び付けられた)。また、下流の下萱津(甚目寺町)で庄内川に注いでいた五条川の水を新川に流す工事も合わせて行っている。木曽三川の宝暦治水はあまりにも有名だが、千之右衛門が行った一連の分流工事は名古屋バージョンとでも言えようか。

 こうした工事で味鋺(あじま)、如意、大野木、久地野、高田寺などの周辺28カ村は長年悩まされてきた洪水からようやく解放されることとなった。しかし、40万両という莫大な出費を余儀なくされ、これがために千之右衛門は藩からその責任を問われて馬廻組に降格されたばかりか、150石のうち50石を減じられることになった。それでも彼は「民を利して退けられる。われにおいて悔いなし」とあまり意に介さなかったという。が、その1年後にはそうした功績が評価され、再び治水や農政に腕を振るうことになる。

 新川に架かる比良新橋のたもと近く(師勝町久地野)に「水埜(みずの)士惇君治水碑」がある。これは洪水に悩まされてきた28ヶ村の有志たちが彼に感謝して文政2年(1819)に建てたものだ。碑文は『郡村徇行記』の著書もある樋口好古(こうこ)が筆を執り漢文で書かれているが、その一文に「生きながら碑を比良堤に建て(中略)其の功績を記し以て後世に告ぐ」と刻み込まれている。


治水碑前から見た合瀬川(左)と大山川の合流点

 微禄ながらも信念を持って治水事業に取り組んだ千之右衛門はもっと知られてもよい人物だ。彼は碑の建てられた3年後に89歳で亡くなっているが、生前に贈られた村人たちの気持ちはさぞかしうれしかったにちがいない。城下の法輪寺に葬られ、墓は平和公園の同寺墓地にある。

 新川は排水路ではあるが、廃水路ではない。サイクリングでその水源を訪ねてみて、いまのような汚れたままの川では水と闘ってきた人たちに申し訳ないような気がしてきた。

 

 

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