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再販制度は本当に必要なのか

会報こそが活動の求心力 継続することに意義がある

現金でも仕入れられない業界の不思議

 「すみません。マイタウンという本屋ですが、おたくで出されている〇〇という本、分けていただけないでしょうか」

 「(いろいろなやり取りのすえ)ええっ、取次もなしで本屋をやっておられるんですか。直接売るということはちょっとできません。はい」

 やっぱりな、という感じだ。出版社に電話で本を注文し、現金で買うと申し出ても、その多くは売ってくれない。1冊、2冊の小口注文だから面倒というのではなく、ある程度まとめた量にしたとしても、である。

 本は出版社が販売価格を指示できる再販商品になっている。そして、原則として売れなかったら返品することができる商品でもある(もちろん、それなりの制約はある)。本来、再販制度と委託制度は別々のものだが、まるでコインの表と裏の関係にも似て、両者は巧みに機能している。

 この制度によって本は全国に流通し、同じ本は同じ価格で買うことができる。しかし、あふれるほど出版されているいまでは、逆にこの制度が弊害となってきた。現に、その流通システムに加わっていないと、ほしくても売ってくれないのだ。

 この二つの制度に守られて、出版業界はあぐらをかいてきた。本屋は他の流通業者と同じ立場にありながら、自分の責任で仕入れて自分の責任で販売する姿勢にない。こんなことを書くと「そんなに甘いもんじゃないよ」と現場から反論も出てきそうだが、基本的にはこういう構造になっている。

 いまの本屋は資金力さえあれば簡単に開業でき、異業種から参入してくることも容易だ。バブルのころは他業界から「わずか2割そこそこのマージンで」と白い目で見られていたが、近年は激しい競争下で本業の利益率も低下し、「返品ができて2割もあるのは魅力的」と目の色が変わってきた。再販と委託のおかげで素人でもできるので異業種からの参入も容易だし、大手の本屋といえどもパートやアルバイトで十分ということになってしまう。

 その結果、どこへ行っても金太郎アメのように、同じような本屋ばかりになってしまった。売れそうな本を集めてゆけば、そうなってゆくのが当たり前だ。ある本はどこへ行ってもあるが、ない本(探している本)はどこへ行ってもない。

 この元凶が再販制度と委託制度だ。今年の春先、再販制度のあり方を検討していた公正取引委員会は「当面、著作物の再販を存続させる」との結論を出した。いきなり全廃になるとは思っていなかったが、泰山鳴動しながらネズミ1匹すら出てこなかった。いま再販商品として残されているものは出版物と新聞だけで、社会に発言力を持つこの両者に押し切られてしまった格好だ。

 本は文化だと言うが、文化だって商品である。こんなことを言い出せば、再販商品からはずされたCDなどは文化でないということになる。資本主義社会では絵画であろうが芝居であろうが、あるいは文化包丁であろうが文化住宅であろうが、一つの商品であることに変わりはない。

 一方、再販制度をはずされると「専門書など固い本は売れなくなる」との主張もあった。しかし、いまだって固い本や少部数の本は売れないどころか、流通することすら難しい。むしろ再販制をなくした方が、現在よりは売れる状況になるのではないか。

 様々な本があるように、様々な本屋があってもいい。それには現金で買いたいと言ってくる者に、売ってやるくらいの度量を見せてほしい。こんなことでは専門店の生まれてくる余地はきわめて少ないと言わざるを得ない。

 

出版界も「構造改革」と「意識改革」を

 本は出版社から取次、取次から本屋へと流れてゆく(返品はこの逆)。それぞれの卸し価格は出版社ごとに異なっているが、標準的なモデルとしては出版社が取次へ本体価格の6、5掛けから7掛けで卸し、取次は本屋に8掛け弱で出荷しているといったところか。つまり、1000円の本なら出版社は取次に650円から700円で卸し、取次は800円弱で本屋へ出荷することになる。

 他の業界と比べると利幅は薄いが、その代わり、返品できるのでリスクは少ない。出版社は作りさえすれば全国に流せるし、取次や本屋も売れなければ返せばいい。おたがいにこうした無責任なルールで成り立っているのが現在の出版界なのである。

 だから何かが売れたとなると、同じようなものがどっと出てくる。あるいは、マスコミなどを動員した一発勝負のキワモノが幅をきかせたりもする。業界関係者にとっては良い本が売れるのではなく、売れる本が良い本なのだ。

 こうした曖昧な取引の中から、多くの過剰商品が生まれてくる。返品されてきたそれらの多くは断裁処分に回されることになるが、資源にとってこれほどの無駄遣いはない。そして、こうして生じる経費も買った人の本代に当然、含まれていることになる。

 いっそ再販と委託を廃止してしまい、自由な取引に任せたらどうか。商品はすべて買い切りとし、返品は一切受け付けない。こんなことになったら「革命的」と思われるかもしれないが、他の業界ではこれがむしろ「常識」なのだ。

 その代わり、出版社は取次に6掛けで卸し、取次は本屋に7掛けで出す。それぞれがリスクを負うことになるが、返品の雑務や資源の無駄遣いなどから解放される意義は大きい。こうした制度のもとでは、販売力のある本屋は直接、出版社と交渉することだって可能になる(大型店が増えつつあるが、その理由の一つとして、こうした事態に備えてのこともあるらしい)。

 こうなると、出版社も取次も書店も、自らの意志で商売せざるを得なくなってくる。真のプロが求められ、その活躍が期待される。ある意味ではこれは大変厳しい事態だろうが、もともと商人道というのはそういうものではなかったか。

 このような環境が確保されれば、専門店もいまよりは登場しやすくなってくる。よそと同じものを並べることに満足しない人は必ず出てくるはず。店主なり仕入れ担当者の理念と力量が問われることとなり、店頭は活性化し個性化してくるにちがいない。

 本来、専門性の高い本や少部数の本はこうした店の方が根気よく売ってくれることだろう。それまでの送品されてきたものを単に並べて売るというのではなく、自分の店にふさわしいものや他店にないものを積極的に探し出そうとする姿勢になるからだ。これは小さな出版社にとってもいいことで、じっくり腰をすえた出版活動こそが評価されるようにもなってくる。

 やる気のある店は自費出版物にも当然、注目してくるにちがいない。自費出版の中にも、いいものはいっぱいある。よそにないとなれば、よけい仕入れにも力が入るはずだ。

 ぼくのところは郷土史本に絞るようにしているが、この種の自費出版にはたえず気を配っている。これはと思って仕入れたものは、それなりに売れてゆく。商業出版とか自費出版とかの区別はまったくなく、問題なのは店のカラーに合ったいい本であるか否かだけだ。

 では、自力で仕入れた本が予測とは違って、売れ残ってしまったとしたらどうするのか。そうなれば八百屋さんや魚屋さんなどがしているのと同じように、値段を下げて売ることだって可能になる(幸い、本は腐らないからありがたい)。本の値段を店側が自由にできないというのも、再販制度下での大きな問題の一つなのだ。

 公正取引委員会は「再販維持」を打ち出したが、もう現実は崩れかけてきている。時代の方が先に進みつつあるのだ。せめてほしい本が自由に仕入れられる環境を、少しでも早く作り出してほしいものだ。(舟橋武志「自費出版ジャーナル」2001年11月号より)

 

 

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