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幻の本『濃尾震誌』を復刻

阪神・淡路大震災を遙かにしのぐ濃尾地震の実態とは

『濃尾震誌』を探して

地震資料収集家 志知安利

会報こそが活動の求心力 継続することに意義がある  今から半年ほど前、叔父の片山鍾一氏から、次のような興味深い話を聞いた。鍾一氏は私の母の妹更愛(ふかえ)と結婚されている。

 鍾一氏の祖父片山逸朗氏は明治24年10月28日に発生した濃尾地震を調査研究し、歴史に残る『濃尾震誌』という書物を著した。鍾一氏が所持していたこの貴重な書物も戦災で焼失し、残念ながら今では親族の誰一人として所有していない、という話である。しかも、この本は濃尾地震の約1年半後の明治26年に出版されたから、100年以上の歳月を経た今日では少数の大学、公共図書館等でわずかに所蔵されているにすぎないらしいとのことであった。

 私はこれに強く興味を抱き、本について調べ始めた。インターネットなどで所蔵する大学、図書館等を探してみたところ、結局、現存する数は20冊程度であろうと推測した。また、文部科学大臣を本部長とする地震調査研究推進本部のホームページを見ると、同本部の地震調査委員会が行った「岐阜・一宮断層帯の評価」という報告書中の文献欄に、地震当時出版された本として『濃尾震誌』が載せられていた。私は次第にこの本を入手したいと思い始めた、いや、必ず入手してみせると密かに決意していた。

 では、埋もれている『濃尾震誌』を発掘するにはどうしたらよいのか。まず、この本に関する知識が私には決定的に不足しているので、現物を何とか一度手に取って形、色、重さなど実際の感触を確かめ、イメージを明確で強固なものにすることが必要だと感じた。

 私はすぐ図書館に向かった。その図書館では、貴重本は開架に置いてないので、職員に住所氏名等を申し出て、書庫から出してもらわなければならなかった。そしてついに、初めて『濃尾震誌』を手にしたのだった。いわゆる大和綴じという和綴じであったはずの表紙は欠落し、洋風の製本に仕立て直されていた。

 ページを繰るに従ってその内容の科学的態度と真摯さに感銘を受けた。110年前の本に、地震の予知なる項目さえあるのには驚いた。その図書館にあった他の濃尾地震に関連する本も手当たり次第に目を通した。そして分かったことは、『濃尾震誌』は明治24年の濃尾地震の記録としてはおそらく最も早く科学的な観点からまとめ上げられた単行本であり、今日でも濃尾地震に関する書物の参照文献欄には必ずと言っていいほど取り上げられている、ということであった。

 次は具体的な本探しの段階だ。手始めに2、3の古書店で尋ねてみると、入手するのは極めて困難だろうとのことであった。110年も前の本だから当然のこととは思いながら、古書店巡りを繰り返していた。時間ばかり過ぎ、桜の季節もいつしか過ぎていた。自分が無謀な決意をしてしまったのではないかとの思いが脳裏をよぎった。

 そんな折、ブックショップ「マイタウン」の舟橋氏から貴重な情報を得た。この手の堅い本を多く扱っている岐阜市の古書店のことを教えてもらったのだ。さわやかな初夏の日、私はその古書店へ出かけた。

 本当のことを言うと、あまり期待していなかった。多分、また同じ台詞を聞かされるのではないかと思っていた。だから長良川の手前でバスを下り、景色をゆっくり見ながら歩いて行った。鵜飼船の手入れをする老人の姿が見えた。目的の古書店をやっと見つけ、店内に入ると一通り中を見渡した。確かに堅い本が多いなと感心した。

 しかし、まだ期待はしていなかった。本の整理をしていた主人に「片山逸朗著『濃尾震誌』という本はありませんか」と問うと、「ありますよ」といとも簡単に答えが返ってきた。えーっ! 聞いた私の方が驚きの声を上げてしまった。早速、購入した。平成14年5月14日(火)のことだった。

 その足ですぐ、著者の片山逸朗氏の住所として記載されていた町名の現在地を調べ、その場所へ足を運んだ。そこは東西の狭い通りで、東を見ると正面に岐阜城が見える。著者の片山逸朗氏も毎日、岐阜城を仰ぎ見ていたのかな?などと思いながら、周辺の写真を撮って帰宅した。

 翌日、私は本と写真を持って片山鍾一氏を訪ねた。本を手渡した私は改めて、よく手に入ったものだな、と静かな感慨にふけっていた。

 早速『濃尾震誌』を読み始めた。序文において早くも片山逸朗氏の真摯な性格を見る思いがした。すなわち「本書中濃尾地震の如きは多く其慘状を叙するに止り敢て其他に及ばざるは是れ今日に在ては未だ完く其材料を得ず未定の記事を臆測して讀者を誤らむことを恐るればなり」とあるのがそれである。そして、その記述されなかった部分は、次のような議論として今日まで続けられていたのである。

 片山逸朗氏が『濃尾震誌』において「第二震裂波動線」として記載した岐阜から名古屋に至る線状の被害集中域については、70年あまりを経た1960年代、学者により「岐阜・一宮断層帯」として濃尾地震時に活動した断層の一つであるとの認識が示された。しかし、その存否等については議論がなおも続いていたようだ。そして平成13年1月10日、地震調査研究推進本部の地震調査委員会が出した「岐阜・一宮断層帯の評価」において「岐阜・一宮断層帯は活断層ではないと判断される」旨の評価がなされた。『濃尾震誌』以後110年を経て、一応結論が出たのだと私は理解していた。

 ところが、平成14年9月12日の読売新聞によると、中部大学の志知龍一教授、名古屋大学の足立守教授らの研究チームの調査で、名古屋市に2本の断層があることが分かり「枇杷島・熱田断層」、「熱田・日進断層」と名付けられた旨の記事が載った。私はこのうち「枇杷島・熱田断層」の図を見たとき、あっ、これは「岐阜・一宮断層帯」の延長線ではないのか?と一瞬思った。それほど位置的、方角的に類似して見えたのだった。

 『濃尾震誌』には興味深い記述が他にもいろいろある。濃尾地震当時、帝国大学には地震学実験室があり、地震学専門の教授がいたという。そしてこれは「他国に無き所」であったとある。また地震の予知についての章では、地震の来る前には地下より噴出するガスに変化を生じたり、井戸水の色、味に変化を生じ、温度が変わるといった変異が起こることもあり、地震の前兆となることもあると述べられている。

 名古屋市における濃尾地震の被害については名古屋城の壁の崩れ、名古屋郵便局の破壊等を写真集で見たことがあるが、意外にも私の居住する身近にも濃尾地震の痕跡があることを知った。

 名古屋市東区筒井1丁目に尾張藩第2代藩主徳川光友が父義直公の菩提を弔うため慶安4年(1651)に建立した建中寺がある。その山門東脇に立つ「尾州家菩提所 徳興山崇仁院建中寺」なる石碑は、上部3分の1付近で斜めに割れ繋ぎ直した跡があるが、これは濃尾地震のときに割れたものを直した、と郷土史研究家で東海高校教諭の日比野元彦氏から教えていただいた。

 「尾州家二十代 徳川義智書之」とあるこの石碑を改めて眺めていて、あることを思い出した。それは生前、母方の祖母が大正12年9月1日の関東大震災のとき、建物の揺れに驚いてこの建中寺境内へ避難し、そこで見たと言っていた次のような光景だ。境内にいた多数の鳩が地上でバタバタ羽ばたくばかりで、なかなか飛び上がれないでいたという。

 遠く離れた関東地方のマグニチュード7・9の地震でさえ、それほどの影響があったとすれば、隣接する岐阜県のマグニチュード8・0の巨大地震である濃尾地震のときは、どれほどの被害であったのか想像すらできないほどだ。祖母から濃尾地震のときの状況を聞いておかなかったのは、今にして思えば残念なことであった。

 いずれにしても東海地震の危険が毎日のように新聞やテレビで報道され、地震防災対策強化地域が拡大されて名古屋市もその中に入った。今改めて『濃尾震誌』のように文字によって記録した本を読んでみると、映像とはまた一味違った種類の惨状のリアルさを感じ取ることができ、防災意識の一端を刺激される思いがした。この本に出会えたことに感謝している。

祖父片山逸朗の面影

片山鍾一(しょういち)

 祖父片山逸朗(いつろう)は慶応3年(1867)12月10日に生まれている。科学的な考え方の持ち主であり、生活も厳しく律する人のようだった。私の知っていること、聞いていたことなど記憶をたどりながら、その大要をまとめてみることにする。

 明治24年10月28日午前6時38分、わが国はマグニチュード8・0の巨大な内陸性直下型地震に襲われた。根尾谷を震源とする、いわゆる濃尾地震である。片山逸朗はその1年5カ月後の明治26年3月、岐阜測候所長井口龍太郎氏などの協力を得て単行本『濃尾震誌』を出版した。

 岐阜県歴史資料館は平成8年に「濃尾大震災の教訓」の企画展を開き、その図録の中で次のように書いている。

 「岐阜県内では、地震発生から1年5カ月たった明治26年3月25日になって、ようやく単行本が出ている。片山逸朗が編集し、安八郡大垣町(現、大垣市)の人、勝沼武一が発行した『濃尾震誌』がそれである。

 この本は体裁241ページ、図版12枚で、当時発行された単行本としては最も分厚い本であった。当然定価も25銭と高い。しかし、この本はその後書かれた濃尾大震災に関する記述の手本となった。

 著者片山逸朗は、岐阜市鍛冶屋町(現、本町)に住む県庁職員であった。着実に事をなす性格の彼は、仕事の余暇をみて、この本を書いたのである」 

 図録には「県庁職員」とあるが、私はそのような話を一度も聞いたことがない。しかし、本書の序文に「本県に在り公務の余暇」云々とある。図録の「県庁職員」はこれをもとにして書かれたようだが、あえて推察すれば、地震直後の混乱期、県庁職員として臨時的に採用され、その処理などに当たっていたこともあったのかもしれない。

 明治27年12月17日に結婚、しばらくして岐阜から東京へ転居した。東京へ移ってから石炭を材料にした「亜炭」と称する新商品を開発、専売特許を取った。JR東北本線がまだ私鉄だった当時、機関車の燃料として一手販売していた。その後、ウサギの肉を使って今で言うソーセージのようなものを作り、新案特許を得て製造・販売も手がけていたということである。

 しかし、私が生まれた年でもある大正12年9月に関東大震災が起きた。そのため事業や財産に対し、少なからぬ被害をこうむったようだ。少ない預金で「尾三物産商会」を設立して再スタート、岐阜や名古屋、三河周辺の特産物などを仕入れ、東京で販売する仕事を始めた。考えてみると、このころに商用で足しげく名古屋の私の家と、東京とを往復していたようで、幼いながら私は祖父の来る日を待ちこがれていたような記憶がある。

 中学生になってからは夏休みなどの長期休暇に、一人でよく東京の祖父の家へ出かけたものである。当時は代々木山谷の明治神宮宝物館の裏辺りに家があった。省線(鉄道省の路線の通称)の代々木駅から徒歩で7,8分のところだった。祖父といっしょにデパートや専門店へ出かけることも多かった。

 そんなとき、祖父は「名古屋はまだまだ不便だ。東京は山手線か中央線で行け、目的地へは便利な都電に乗り換えれば簡単に到達できる」などと説明してくれた。交通機関などの名前を教わったことも、今ではよい思い出の一つとなっている。

 小田急で新宿から比較的近いところに「豪徳寺」という駅がある。そこには豪徳寺という立派なお寺があり、祖父はここの和尚さんと気が合い親友になっていた。自分が死んだらそこの墓に葬ってもらうよう、墓地も買っていたようだ。

 祖父は若いころから漢詩が好きで、ずっと勉強を続けていた。50代後半になると生活の中心が徐々に漢詩になってきた。

 昭和6年に満州事変が起き、翌年3月には満州国が建国され、「非常時」という言葉が使われるようになってきた。このころ、漢詩の通信教育を含めて全国に軍人のお弟子さんが120人を越えるようになり、70歳の古希の祝賀会を東京の海軍会館で開催していただいたこともある。以後、漢詩を余生の伴侶とした生活を続けていたようであった。

 満州事変、日支事変などからついに大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦へと、わが国は戦争に向かって突き進んでいった。そんな中の昭和15年、祖父の最後の著書になった『輝く聖戦・第2巻』が発行されている。この本は漢詩を冒頭に書き、その読み方を載せ、その後に戦況や背後の事情など、理解を進めるための細かい解説を記したものである。巻頭には次のように書かれている。

 「本書の編纂については、事変が重大であるだけに、その経緯が頗(すこぶ)る複雑多岐を極め簡単に書き下ろすわけには行かない。即ち出来得る限り広く資料を蒐集(しゅうしゅう)して、その経過を及ぶだけ明確にせんため、ただ表面の記述のみでは往々その真相が掴み兼ねるから裏面の事情や説明的記述をも加へてこれを補足するやうにした。随て予期以上に浩澣(こうかん)のものとなった」

 「本書の編纂に方(あた)りて資料をそのまま用ふることとしたい。資料を改刪(かいさん)すれば、これがため却て史実を誤るの虞(おそれ)もある。例えば現に特派員の従軍記にしても、文を舞はし筆を弄(ろう)したる名文には余りに事実を誇張したる弊も見受けられると同じく、資料を改刪することによりて、文章としては面白く読ませるかも知れぬが、歴史としてはいよいよ事実に遠いものとなるの懸念がないともいわれぬ。資料は取りも直さず歴史である。毫(ごう)も資料を改刪する必要を認めない」

 これこそ祖父が著述をするときに心がけたことであり、物事を扱うときの基本的な考え方である。その姿勢がひいては人柄にまで及んでいたのではないかと考えている。

 漢詩の指導や出版物の発行は「詩学社」という名前を使っていた。その詩学社が定期的に発行していた機関紙を作るため、こつこつと自分でガリ版の上で原紙を切っていた。そんな祖父の後ろ姿が今も私の目に浮かんでくる。

 昭和15、6年当時、師範出の月給が40円前後だった。祖父が書をしたためると1枚10円にもなったそうで、それを自慢気に話してくれたこともあった。そうしたものの何枚かが今もわが家に残されている。

 祖父の亡くなったのは昭和18年12月21日だった。当時は戦時中で高等学校、専門学校、大学などで6カ月の繰上げ卒業が行われていた。私も9月に卒業して10月に奉職したばかりの年末であった。

 片山逸朗の親族で、本人に面会したことがあり、直接本人を知っているという人は、私を除いておそらくもう一人もいないのではないか。逸朗の長男が私の父で、私は父の長男である。従って、祖父逸朗にとって私は初孫であった。

 祖母は私の父が3歳のときに亡くなっている。祖父は初孫であるこの私が非常にかわいく、大事な孫であったようだ。よくかわいがってもらった記憶がいまだに残っている。

 祖父は早く妻鍬(くわ)に先立たれ、5年後には後妻みつを娶った。それ以後も引き続き東京に居を構え、亡くなるまで東京に住み続けていた。

 今回、縁あって『濃尾震誌』が復刻されることになった。東海地震への対策が急がれている現在、本書が再び世に出ることに、祖父も草葉の陰から喜んでいるにちがいない。生存者に尋ねる人がたれ一人としていないので、60年以上も昔のことを、記憶の細い糸を手繰りながらまとめてみた次第である。

『濃尾震誌』復刻にあたって

 この地方の寺社を訪ねると、濃尾地震の話がよく出てくる。本堂や社殿が倒れ、その後に再建されたものが多いからだ。歴史を経てきたさすがの建物も、濃尾地震には耐え切れなかったというわけである。

 大河ドラマ「利家とまつ」のおかげで荒子観音(正式には浄海山観音寺)を訪れる人はいまも多い。名古屋市最古の木造建築物である多宝塔(国指定の重要文化財)は幸い難をまぬがれたものの、本堂をはじめ仁王門、六角堂など主だった建物の多くが倒壊してしまった。現在の本堂はそれまでの仮本堂に代わり、近年になって再建されたものである。

 子供のころ、祖父母や周りの人たちなどから、濃尾地震の話をよく聞かされたものだ。家の下敷きになって亡くなったとか、どこどこの家が倒れたとか。子供心にも地震はこわいものだという強い意識があった。

 それに昔は現在よりも地震が多かったような気がする。ぐらっと来るたびに、あわてて外に飛び出していた。いま、そうしたことがあまりなくなったのは地震の回数が減ってきているのか、あるいはまた長じて鈍感になってしまったためでもあろうか。

 愛知県の多くの地域が東海地震の対策強化地域に組み込まれた。地震はいつか必ず現実のものとなる。その影響の大きさは先の阪神・淡路大震災を思い出すまでもない。

 本書は多く出た濃尾地震関係の出版物の中で、最も優れたものと評価されてきた稀覯(きこう)本である。これにはわか国で起きた地震の歴史や各地の被害の実態などが詳しく報告されている。過去を知ることにより、未来への教訓としなければならない。

 科学は目覚ましい進歩を遂げてきたが、こと地震の予知に関しては幾多の努力にもかかわらず、あまり進んではいないように思えてならない。発生日時を予告することなど、どだい不可能に近いのではないか。たとえかなりの確率できるようになったとしても、避難勧告を出すにはタイミングなどの難しい問題もある。

 東海地震が発生すれば、濃尾地震の被害をはるかに上回るものになるかもしれない。都市化や過密化などが一層拍車をかけることも予想される。

 濃尾地震のとき、柿の木にしがみつきながら「世直しじゃ、世直しじゃ」と泣き叫ぶ人たちもいたとか。江戸時代のナマズ絵などを見ると、意外ににこにこしている人たちが描かれていたりもする。これらはすべてが破壊されて同じスタート台に立てるという庶民の意識の表れのようだが、いまはそのような時代でないことは言うまでもない。

 われわれが心掛けるべきことは地震のこわさを再認識し、それへの対策を常日ごろから怠らないことだ。それにはまず地震の実態をよく把握しておく必要がある。そのためにも本書は大いに役立つにちがいない。

 復刻にあたり快く許可をいただいた著者のお孫さん、片山鍾一さんに感謝の意を表したい。また、地震資料などを収集し、原本の発掘に努められた志知安利さんにも、心からお礼を申し上げる次第。本書が来るべき大地震に対しても、参考になることを願ってやまない。 (ブックショップ「マイタウン」舟橋武志)

●『濃尾震誌』ブックショップ「マイタウン」発行、3900円+税

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